広々とした空間を挟んで対峙する。眼前は暗闇。だがそれは、目を塞いでいるからだ。素足が板張りの床を擦る。その小気味いい音は、道場の中へ拡散し、相手との距離は測れない。だが気配だけはする。戸惑いと傲り、合わせて親心ともいえる感情の中に容赦のない敵意が見え隠れする。いつもの、従兄の気配だ。

 全部が霧だ。

 細かい粒子が空間を満たしているようなイメージが思い浮かぶ。

 何かが、揺れる。途方もなく恐ろしい何かが。

 乱れる。右から来る。ほとんど上体が床と水平になったかのように見える。こちらの腕を掴まんと突き出される手。こちらも腕を返してそれを払う。続けて掌底、縦拳、花のように体を捌いて足技へ移行。道哉はその猛攻を潜り抜けると、身を低くして膝を狙う。だが従兄の体勢は少しも崩れない。慌てて間を取る。息つく間もなく万華鏡のような腕刀打ちの応酬――ひと呼吸に四、五合も打つその目まぐるしさに、道哉の構えが乱れる。

 甲冑を着た相手を倒すための格闘術に端を発し、日本拳法や近代格闘の要素までも加えた独自の格闘術だ。その攻撃は変幻自在。

 乱れた構えの隙間を縫うように従兄の手足が伸びる。腕を捕まれ、引かれる。構えの乱れが姿勢の乱れへと増幅される。蛇のようにうねる両足が肩を固める。大人一人分の体重をかけられた道哉の関節が悲鳴を上げる。たまらずうつ伏せに転倒。振り上げられる拳。

「そこまでっ!」と少女の鋭い声が飛んだ。

 縛めが解ける。「腕を上げたね、道哉」

「信じらんねえよ。毎度とはいえさ。本当に見えてないのか?」荒れた呼吸を整えながら、道哉はアイマスクを取った。

「僕は、見えなくても何とかしなきゃいけないから」目を閉じたままの青年が言った。「道哉の方がすごいと思うよ」

「俺に負けたことねえくせに、よく言うな」

「稽古が足りないのさ」

 細面に微笑で応じる和装姿の色白な青年の名は、榑林一真。古流武術にその源を持つ榑林真華流を伝えるこの道場の若き主だ。

 ただし、門下生はひとりもいない。

 親族は道場の経営に興味がなく、当の一真も技を自分が極めることはともかく、教え広めることには興味がない。そもそもの流派の思想が、大衆に教え広めることを是とせず、それが必要である者に戦う術を与えることを旨としている。護身術でも、スポーツでもない。むしろ純粋な戦闘技術としての色が濃い流派なのだ。

 ただでさえ、二昔前なら優男、一昔前なら草食系という表現が似合うのが、榑林一真という男だ。幼い頃に視力を失い、暗闇の世界で思索に耽るうち、時代にマッチしない流派と心中する意志を人知れず固めたのではないか。己のことをあまり語りたがらない従兄の横顔を見るにつけ、道哉はふと、そんなことを思う。

 板張りの上で胡座をかいていると、穏やかな声が降ってくる。

「でも、わたし的には今のはいい勝負でしたよ、道哉さん。差は縮まっています」

「一花ちゃん的に?」

「はい」その名のごとく一輪挿しの花のように笑って、榑林一花が言った。「一枚の紙も四十二回折れば月まで届くのです。今は七回目くらいです」

「先は長いね」

「ちなみに一説によればどんな紙でも折るのは八回が限度だそうです」

 きょとんとする道哉に、一花は満足気に微笑む。

 項をくすぐる程度の黒髪に控えめな微笑み。兄と同じく色白な頬には、楚々とした紅が差している。浴衣に薄手の半纏姿に慣れた仕草は、例えば前髪を払いしなに流れる袖を片手で抑えるだけでも、普段が洋服の道哉をどぎまぎさせた。

 榑林一花は一真の妹で、道哉にとっては従妹。学校では、先輩と後輩の関係にあたる。大和撫子風の可愛い一年生と同級生らが噂しているのを、道哉も小耳に挟んだことがあった。

 その割に淑やかさとは程遠いことを時々口にする。

 八回しか折れない、とはイメージがつきにくい。道哉が首を傾げていると、一真が言った。「今日はここまでにしようか」

「あの……道哉さん」一花がおずおずと口を挟む。「今日はどうされますか?」

「離れに泊まっていくよ」

 彼女は急に表情を輝かせた。「じゃあ、食事の支度、してきます」

 そのまま小走りで母屋へ向かう一花の足音が遠ざかると、一真が言った。「泊まるだなんて言うもんじゃないぞ。ここは君の家でもあるんだから」

「おっさんみたいな物言いしないでくれよ」

 道場と母屋に離れと、決して狭くはない敷地を持つ榑林邸だが、住んでいるのは三人だけ。一真と一花の両親は道場を忌避しており、むしろ榑林真華流の滅びを望んでいるかのようだった。かくしてこの家は、亡き彼らの祖父から技を受け継ぐ一真の広すぎる居所となり、盲目の彼の日常生活を世話するために、妹の一花が同居している。

 道哉がここの離れへ身を寄せているのは、年が近い子がいた方が安心するだろうという配慮のためがひとつ。もうひとつは、両親を亡くしてから打ち込めるものを探していた道哉に、榑林真華流がうってつけだったためだ。

 道哉の抱えていたやり場のない怒りを、稽古という形で一真は全力で受け止めてくれた。目隠し組手を通じて、心を平静に保つことも教えてくれた。一真がいてくれたからこそ、今の自分があると道哉は感じていた。

 とはいえ年頃である一花がいることから、親族の有形無形の圧力を感じて、同じ母屋ではなく離れに暮らしている。とはいえそのせいか、ここを今ひとつ我が家と感じられないのも事実だ。

 陽はとうに暮れていた。思いふけっていると、一真に手を差し出される。本当なら逆だろうとひとり肩を竦めていると、不意打ちのように一真が言った。

「学校で何があったか、訊いていいかな」

 立ち上がった道哉は稽古着の襟を正した。「一真さんに、隠し事はできないな」

「一花がいては話しにくいことか?」

 閉じたままの目で、正確にこちらの目線を捉えている従兄。

 恐れるべきところは何もないのに、怖気が走った。

 時々、一真のことが、決して手の届かない存在に思えることがある。

 これが、榑林真華流の奥義を極めた者の力なのか。それとも、この従兄だけが他と一線を画した特別な存在なのか。

 大したことじゃないんだけど、と道哉は前置きする。

 語るのは、昼休みのことだった。

 自ら命を絶った野崎悠介。ともすれば、野崎が死を選ぶに至る原因を作ったのかもしれない、佐竹という生徒。その佐竹が、今度は別の生徒を標的に定めていること。

 あの時、ボールを真下で羽交い締めにされている島田へ落として当てようとしていた佐竹に、道哉は偶然を装ってすれ違いざまに肩を当てた。ボールは逸れた。佐竹は少し不機嫌そうにしたが、道哉の故意だとは気づかない様子だった。

 叩きのめすこともできた。

 佐竹がどんな格闘技を嗜んでいるかはともかく、負ける気はしなかった。少なくとも、道哉は一真という鬼神を知っている。文字通り、目を瞑っていても倒せる自身があった。

「奪う側ってのは、ずっと奪い続けるからね」と一真は言った。「彼らに自覚はないんだよ。誰かから何かを奪っているという自覚が。でも、生きている限り誰もが奪いながら奪われている。僕もきっと、誰かから何かを奪っている」

「一真さんが?」

「たとえば一花の時間をね。人と人が関わるということは、奪い奪われるということだ。それが嫌なら、なるべく人と関わらないことだ」

「気にしないか世を捨てるか、どちらかにしろって?」

「道哉もどちらかというと、世を捨てる側の人間だと思ったけど」

「……一真さんの言うことはよくわからない」

「それで、道哉はどうするんだ?」

「どうするって」

「ずっと偶然を装って島田くんを助け続けるのか?」

 道哉は一真に背を向けた。「そんなこと言うなよ。目の前にいるんだよ」

 そうはいかないということくらい、道哉にもわかっていた。だが、たとえば佐竹を叩きのめしたとして、もう二度と誰もボールの標的にならないわけではない。

「一真さんなら、どうするんだよ」

「僕の目は見えないし、僕は憂井道哉ではないんだ」一真は悠然と続ける。「それに誰も彼もを叩きのめして島田くんを守ったところで、野崎くんは帰ってこない。そうだろ」

 振り向いて睨もうとして、やめる。睨んでも一真には見えないのだから。たとえ、第六感のようなものですべてを知っていたとしても、見えないふりをするのだろうから。

「一花ちゃんにごめんって伝えておいて」

「……またあそこ?」

 その問いには答えず、道哉は道場を辞した。

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