②
生徒が一人自殺をして、緊急職員会と保護者会が催され、何事もなさを装うかのように、授業の合間でいじめに関するアンケートが配られる。用紙に目を落としつつ、教室の左右を窺う。ほとんど誰も、熱心に書くことはない。学級委員長を務めている生徒だけが、熱心にペンを走らせている。きっと、国営放送好みの虚ろな言葉を、延々と書き連ねているのだ。
いじめゼロのための行動宣言、と書かれた紙が、道哉の前にもあった。ここに、自分はいじめをゼロにするためにこういうことをします、という宣言を書き入れるのだという。
学校中からそれを集めて、どこかへ送る。受け取った非営利団体か何かは、日本中の子供たちからこんなにもたくさんの行動宣言が集まりました、と悦に入る。そしてどこかで、今日も弱い者が泣き続ける。
スクールカースト、という言葉がある。
野崎悠介は、その最下層だった、らしい。道哉は、隣のクラスの勢力図に精通するようなタイプではなかった。
迷った挙句、皆が互いの苦しさを思いやれるように、とだけ書いて提出する。
昼休みだった。
教室では、弁当を広げる生徒たちの姿が目立つ。
道哉は席を立つ。
親のない道哉は、弁当というものを持たされた記憶がなかった。
だから昼休みの風景には、眩しさと、苛立ちを感じる。そしていつしか、人気のない場所を探してコンビニで買ってきたものを一人で食べることが習慣になっていた。
人当たりが悪い方ではない、と思う。スクールカーストというものがあるとして、天辺ではないが最下層でもない、と思う。クラスメイトの顔と名前は全員分覚えている。いつも誰かと一緒なわけではないが、教室で言葉を交わす相手に困ったことはない。
ただ、違和感だけがあった。
みんなとは、違う。何が違うのかは、わからない。親がいないことか、それとも、かつて友達だった少年を亡くしたからか。
道哉は、日の当たるベンチを見つけ、今日の昼休みをここで過ごすことに決める。
校舎の裏手。人は少ない。由来もわからない資材が朽ち、バスケットボールのゴールがひとつ、壁際にぽつんと佇んでいる。見上げると、外階段の踊り場で二人きりの時間を過ごすカップルがいる。
ブラスバンド部の練習に励んでいるのだろう、トランペットの音色がどこかから聞こえる。食事を手早く済ませると、道哉は文庫本を開く。ふざけ合う生徒たちの声。
六月。もうすぐ暑くなる。でも一人で木陰にいると、時々ぞっとするような寒さに襲われる。
ふと、ベンチの下にボールが転がっていることに気づいた。見つけられるのを待っていたような気がして、道哉は文庫本を置くと、ボールを取り上げる。軽くドリブル。フリースロー程度の距離から、ゴールへ狙いを定める。白枠の塗装は剥げかかり、ネットは切れている。
シュート。リングに嫌われ、弾かれる。
そしてボールが転がっていった先に、数人の男子生徒がいた。
「あっれ、憂井くんじゃん。何してんの、こんなとこで」
同級生だった。制服をやや着崩して、髪に必ずワックスをつけているタイプ。絵に描いたような不良ではないが、馴れ馴れしさが鼻につく、しかし教師からの受けはいい。
似たような顔が三つ並んでいる。そして、その後ろに、彼らに似ていない顔が一つあった。
少しも着崩していない、サイズの合っていない制服。黒く汚れた親指の爪を忙しなく人差し指に押しつけている。肌には荒れが目立った。いかにも気が弱そうで、他の三人とは接点がなさそうな男子生徒。
「憂井くーん? 俺のことわかるー?」
我に返って道哉は応じる。「ごめんごめん、誰か来ると思わなくて」
「えー? 本当に俺のことわかる? 俺、憂井くんと全然話したことなくてさー」ボールを取り上げ、後ろの二人と目配せする。「不安なんだよね、俺、クラスのみんなと仲良くしたいし」
「松井、髙橋、元木でしょ。大丈夫だよ」
「あーよかった! 間違えたらどうしようかと思ったわ、俺マジ泣いたわ」と松井。泣かねーだろ、ねーわ、などと髙橋、元木が混ぜ返す。
その隙間を縫うように、四人目と目線が合った。
「島田くんは、どうしたの?」と道哉は言った。
島田雅也。若白髪が目立つ彼とは少し、話したことがあった。漫画を集めるのが好きで、以前、電子版ではページの一部がカットされているという漫画の物理書籍を貸してもらったことがあった。
確か、書道部の所属だと話していた。爪が汚れているのは墨汁のせいだろうか。
「バスケの練習だよ」と松井。「体育の授業でクラスの役に立ちたいんだって。な、島田くん」
「ふぅん」と相槌を打っておく。当の島田は黙っている。
「憂井くんもどう?」
「俺?」
「そうそう」人当たりのいい笑みを浮かべる松井。
そういうことね、と心中呟き道哉は言った。「俺はいいや。下手だし」
「そっか、残念だわ。運動神経良さそうじゃん」
「別に……じゃあ俺、教室戻るわ」
あいよ、と気さくに手を振る松井に背を向ける。
角を曲がったところで、道哉は足を止め、校舎の壁に背を預けた。
程なくして、島田の悲鳴が聞こえた。
島田は体育の授業で見学させられるような生徒だ。運動神経が鈍く、松井を初めとする一部の運動部の生徒たちに目をつけられ、足手まといだから出るなと言われて、授業時間中ずっと、グラウンドや体育館でじっとしている。教師は何も言わない。
そんな彼が、松井に教えを乞うわけがない。
目を閉じる。光景が目に浮かぶ。滑らかなレイアップシュートを決める松井。ゴール下でボールを受けた元木が、それをどうしていいかわからないでいる島田へ思い切り叩きつける。リバウンドを制するものは、と嘯きながら、髙橋がそのボールを受けてジャンプシュート。リングに弾かれる。最高到達点で打つんだよ、と松井が笑う。その松井がボールを受けると、バックハンドの鋭いパス。島田の膝へまともに当たり、その場でうずくまってしまう。
目を閉じている方が、世界のすべてがよく見える。見たくないものまですべて。
特殊体質、のようなものだ。両親を早くに亡くした道哉は、古武術の道場を営む伯父のもとへ引き取られた。そして、幼い日の道哉は、道場の跡取りである従兄によく懐いていた。彼は生まれつき目が見えなかったのに、組手をやって一度も勝てたことがなかった。
途中からは、対抗意識からか従兄と立ち会うときは自分も目隠しをするようになった。そのせいか、目を閉じていると目を開けているときよりも世界がはっきり見えるような気がする。それは錯覚なのか、はたまた本当に不可思議な感覚が芽生えているのか、確かめたことはない。
その時、彼らの頭上の外階段から、だみ声を気取っているような声が聞こえた。
「おー、お前ら何やってんの」
松井が顔を上げる。「サタさん。バスケの練習だよ」
道哉は目を見開いた。
サタさん、と呼ばれていた生徒は、佐竹純次。鋭い目に浅黒い肌が印象的な彼は、格闘技の心得があるのだという。実際に、休み時間の廊下などで極め技をクラスメイトにかけている姿を時折見かける。身体は、同じく格闘技を知る道哉から見ても、鍛え上げられている。ふざけているだけ、と見せて、単純な暴力で力の差を思い知らせる。そうやって、教室での力を誇示する。そんな彼の周りには、男子だけでなく、派手で声が大きいタイプの女子も集まる。漫画や雑誌に載っているものではない、生々しい性的な話題を恥ずかしげもなく大声で言い交わしている場に、道哉も出会したことがある。
同い年で同級生でも、力の差はある。
だから、松井は佐竹にさんをつける。あくまであだ名のような体で、だがそれは、休み時間の廊下での極め技がふざけいているだけという体なのと、同じだ。
あくまで演じているだけという言い訳をしながら、しかし容赦のない上下関係が厳然と存在する。
そして佐竹は、死んだ野崎悠介と同じクラスだった。
「ボールよこせよ」と三階上から佐竹が言った。
道哉は、引き絞られた矢のように走り出した。
花壇の並ぶ広場を抜けて昇降口を駆け抜け、昼休みに賑わう廊下を肩が当たるのも構わずに走る。
外階段を駆け上がり、佐竹のいる一階下で様子をうかがう。松井が投げ上げたボールを、踊り場で戯れに弾ませている。
「じゃあ落とすぜ。ゴール頼むわー」
佐竹はボールを手に、地上へ狙いを定めた。島田の悲鳴、松井らの笑い声。
ゴールとは島田。三階の踊り場から、地上で羽交い締めにされた一人に向かって、佐竹がボールを落とすつもりなのだ。
以前、同様の『遊び』で肩を脱臼した生徒がいた。遊びが過ぎるとして注意はされたが、それだけだった。ただ遊びでやっているわけではない、悪質ないじめの一つなのだと誰もがわかっていたが、誰も何もしなかった。
もしかしたら、と思い当たる。
野崎悠介も、同じことをされたんじゃないか?
「せーの」
佐竹が振りかぶった。
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