79.君へと還る
《1998年12月22日 2:49AM 州都ヴェマラキア 当局本庁舎:41階大会議室》
シュルツがトマス・アドラー博士と対峙する
――マリア?
彼女の不審な様子に気づいたときには、もう遅い。マリアはすでに、入口とは反対方向へ駆け出していた。大会議室の非常扉を開け放ち、屋上目指して駆けあがる。
「「マリア!?」」
シュルツはアドラー博士と同時に叫んだ。しかしマリアは振り返らない。あっという間に、彼女の姿は階の上へと消えていった。
屋上へ行こうというのか?
シュルツは思わず、大会議室の壁面に並ぶモニターうちのひとつを睨んだ。屋上の様子を移すカメラがあるのだ。その映像に、マリアの姿が現れた。
強風に髪をなぶられながら、マリアは一歩、また一歩と屋上のふちに向かって進んでいく。両脚が鉛に置き換わったかのような、重たい足取りで。
――まさか……死のうとしているのか?
「待て、マリア!」
我に返ったシュルツは、マリアを追いかけようとした――だが、叶わない。彼の右脚に装着されているロボット義肢は、故障していて動かないのだ。体勢を崩し、シュルツは再び転倒した。
「身を投げようというのか!? 愚かなことを!」
アドラー博士が声を荒げてそう叫んだ。今までの冷静さとは打って変わった、燃え盛る炎のような表情――。焦りと怒りがない交ぜになったような激しい顔だった。こんな顔をする恩師を、シュルツは今まで見たことがなかった。
次の瞬間、シュルツは自分の目を疑った。
トマス・アドラー博士が懐から拳銃を取り出したからだ。
“トマス先生”は拳銃を。……人殺しの道具を握りしめて、反対の手で杖を突きながらマリアを追いかけようとしていた。よたよたと、老いた足取りで階段に向かって歩き出す。
その拳銃で……いったい誰を撃つつもりなのか。
「――先生!!」
シュルツは叫んだ。床から立ち上がりきれず、上体を起こして恩師を引きとめる。恩師はちらりとふり返った。
シュルツ自身もまた、拳銃を握りしめていた。先ほどブラジウス・ベイカーから預けられていた物だ。
「……先生、あなたは。その拳銃で何をするつもりですか?」
銃口を恩師に向けて、シュルツは声を震わせていた。
「動かないでください……動けば、撃ちます……………………」
威嚇にもならないほど、シュルツの声は揺らいでいた。
恩師は自分の銃をシュルツに向けることはせず、鋭い視線でシュルツを射抜く。『邪魔をするな』――灰色の瞳がそう言っていた。
威嚇し合うように、ふたりはしばし静止した。
先に動いたのは、恩師であった。
「ロベルト。君と遊んでいる暇はないんだ。私のやり方が気に入らないなら、君がマリアを救ってみせたまえ」
そう言い捨てるとアドラー博士は、シュルツに背を向け歩き出した。
この
実際シュルツに、恩師を撃てるわけがなかった。
「――――……」
怒りと焦りの足取りで、杖を響かせ階段を上っていくトマス・アドラー博士を。呆然としながらシュルツは見守っていた。
ふるえる手に握られていた拳銃が、力なく床に落ちた。
「やめろ……」
会議室にひとり取り残されたロベルト・シュルツは、画面に映し出された屋上の光景を見て、届くはずのない声を上げていた。
屋上から身を投げようとしていたマリアの脚を。
アドラー博士が、足止めするかのように拳銃で撃った。
「先生……! マリア!」
力なく、打ちふるえてそう叫んでいた。
何もできない。こんな場所で、自分はひとり這いつくばっている。
――いったい私は、何をしているんだ?
「やめてくれ……」
こんな地獄は。もうやめてくれ。
死ぬ以外の方法では、自分の意志を貫き通せないマリアと。
役立たずの自分が許せなかった。動かなくなった右の手足を睨みつけ、生身の左半身を使って壁にすがりつく。
――追いかけなければ。追いかけて、あの二人を止めなければ。
モニター越しの光景に、シュルツは再び慄然とした。撃たれても止まろうとしないマリアに憤り、アドラー博士がさらに数発の銃弾をマリアの肩に撃ちこんだからだ。
「なぜ……」
どうしてあなたは、マリアを撃つんだ? ヒューマノイドIV-11-01-MARIAは、あなたの“娘”ではないか。
「……先生。あなたは、そんな人間ではなかったはずだ」
あなたはそんな、人間では…………………………………………。
不意によぎった考えに、シュルツの心臓は凍り付いた。
* * *
火をつけられたような激痛。
太腿を襲った痛みに、マリアは体をよじらせた。
「……――――ぁ、っ――」
声にならない悲鳴をあげて、彼女はその場にくずおれた。
「IV-11-01-MARIA。……勝手な真似は許さない」
追いかけてきたアドラー博士が、彼女の足を撃ったのだ。
「戻りなさい! マリア!!」
細い硝煙が立ち上る拳銃を右手でかかげ、博士は恫喝するようにマリアに向かって叫んでいた。
博士は杖を突きながら、ぎこちない足取りでマリアに迫ってくる。
撃たれた脚を押さえつけ、マリアはアドラー博士を睨んだ。
――わたしの生き死にを、あなたが勝手に決めないで。わたしは人間とは違う。脚を撃たれたくらいでは、わたしはあなたに屈しない。
侵害刺激を受けたとき、ヒューマノイドは人間と同等程度に痛みを感じる。身に迫る危険を頭脳に伝えるためだ。だがヒューマノイドの体は、人間よりも強靭だ。
痛くても。死なない。この程度では壊れない。
だからマリアは、アドラー博士の静止を無視して立ち上がろうとした。
歩み寄りつつ、苛立つ声で博士が叫ぶ。
「無駄だマリア! 君には自殺などできん。ロボット工学三原則の、第三条を忘れたのか?」
マリアのくちびるは、小さく笑った。
「覚えていますよ、もちろん」
体を起こして、挑む口調でマリアは答えた。
「でも、第一条がわたしの背中を押してくれるはずです」
自分というロボットが人間への復讐のための道具なら、自分そのものが人間にとっての害悪となる。
「わたしには、人間に及ぶ害悪を見過ごすことなんてできません。だからわたしは、IV-11-01-MARIAを殺すのです」
シュルツのために。そして副次的にはその他大勢の人間のために。こんな危険な
アドラー博士の表情がこわばったのを見て、マリアは、ようやく一矢報いることが出来たと思った。
でも。なんて悲しい抵抗だろう。死ぬことでしか、自分の意志を貫けないなんて。
流れそうになる涙をこらえ、挑発的な笑顔を顔に張り付けて。マリアはフェンスに足を掛ける。
「止まりなさい、マリア!」
止まるものか。
焦るように声を荒げて、アドラー博士は足を速めた。ふたりの距離は、すでに三メートル足らず。だけれど年老いた博士の速度では、マリアを止めることなどできないはずだ。左右の腕でしっかりとフェンスを掴み、マリアはよじ登っていた。
「止まれ!」
ヒステリックな声で叫び、アドラー博士はマリアに再び撃っていた。
――銃声。
――銃声。
左右の肩を襲う、爆ぜるような激痛。
「……うっ」
くちびるから苦鳴が漏れた。固くまぶたを閉じると同時、足首を強く引っ張られる。マリアは、自分の体がフェンスから引き剥がされたことに気づいた。
床に叩きつけられたマリアは、疑似肺の中の空気を吐き出した。
体の上にのしかかる重み。再びまぶたを開けたときには、彼女の上には組み伏せるようにしてアドラー博士が乗り上がっていた。
「くだらない抵抗はやめたまえ、IV-11-01-MARIA」
汗を流し。呼吸を荒げ。灰色の瞳に鋭い光を宿らせて、アドラー博士はマリアを見下ろしていた。彼女の細い両肩を、不意に掴んで力を込める。
「あぅっ……――――――」
老人とは思えないほどの強い力で掴まれて、マリアは痛みに声を漏らした。
「マリア。君は生き続けなければならない。私の計画は、君がいなければ成立しないのだから!」
涙を浮かべたマリアの瞳を、覗き込みながら老人が叫ぶ。
「君には死を選ぶ自由などない!」
死を選ぶ自由が、ない……? わたしはこの人の復讐の道具として、生き続けなければいけないの?
そんなものは、“生”とは言わない。すでに“死”だ。実際に死ぬより、ずっとひどい。わたしは……こんな人間の身勝手に振り回されて、利用され続けなければいけないの?
涙が邪魔をして、マリアは何も見えなくなった。風の音に邪魔されて、何も聞こえなくなった。
――たすけて。ドクター・シュルツ。
祈るようにあの人の姿を思い浮かべた瞬間。
「――――――――――――やめろ!!」
まるで
「ロボット工学三原則第二条に基づく命令だ……マリアを解放しろ、“
まるで魔法のようだった。
シュルツの声が響いた瞬間。トマス・アドラー博士の動きが、凍りついたように止まったのだ。マリアの肩を掴んでいた博士の手が弱まり、マリアを組み伏せていた博士の力が消失する。マリアはよろよろと起き上がった。
彼女は見た。
階段の手すりに身を押し付けて、ロベルト・シュルツが立っているのを。
「来い!! マリア!」
左手を差し伸べて、シュルツが叫ぶ。
マリアには、もう。
「ドクター・シュルツ――――!」
マリアにはもう、拒めなかった。
* * *
アドラー博士を押しのけたマリアは、シュルツの胸へと飛び込んできた。
「ドクター・シュルツ――――!」
泣きながらすがりついてくる彼女を、シュルツは強く抱きしめ返す。
彼はマリアを抱きながら、アドラー博士を見つめていた。
アドラー博士は。凍ったように静止している。
博士の顔には驚きとそれを上回るような深い笑みが、ない交ぜになって浮かんでいた。
不可解な、恩師の表情。なぜそんなふうに笑う? 満ち足りたように。まるで、何かを成し遂げたように……
「…………トマス、先生?」
シュルツは乾いた声で、ぽつりとつぶやいた。
そんな小さなつぶやきは、風に遮られて博士の耳には届かなかったはずだ。それでも博士はうなずいた。
うなずいて、博士は拳銃を高く掲げた。
「――――先生!?」
掲げた拳銃をゆっくりと、博士は自分のこめかみに当て、
「やめ……」
シュルツが静止する暇もなく。トマス・アドラー博士は自身に向けて引き金を引いた。
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