77.真白き賢者
《1998年12月22日 2:40AM 州都ヴェマラキア 当局本庁舎:41階大会議室》
「久しぶりだね、ロベルト。こうして直接君に会うのは、三年ぶりだ」
雪原に降る粉雪のような、静かな声。
愛弟子との再会を噛みしめるような口ぶりで、トマス・アドラー博士は言った。
一方のロベルト・シュルツは、唇を引き結んだまま答えない。動かなくなった右の手足を壁に押し付けて、体を支えて立っている。
大会議室は静寂だった。壁面に取り付けられたいくつものモニターが、庁舎内の恐慌状態を映し出している――その混乱とは打って変わって、この大会議室は真白い静寂に飲まれていた。
大会議室の中央で、杖を突いて立つアドラー博士と、その傍らにうずくまるマリア。
入口付近の壁に体を押し付けて、立っているシュルツ。
シュルツと恩師の間を別つのは、ほんの三十メートル程度の距離だった。だがその距離が、非常に長いとシュルツは感じた。
険しい顔の愛弟子を見て、アドラー博士は挑発的な笑みを浮かべた。
「何を怒っているんだ、ロベルト?」
首を傾げて笑いながら、アドラー博士は言葉を連ねる。
「義肢が壊れてしまったからか? あぁ、それとも……」
アドラー博士は、一語一語をゆったり言った。まるで、シュルツを敢えて怒らせようとしているかのようだった。
「出来損ないの道具を押し付けられたから。だから、怒っているのかね?」
出来損ないの。道具。
言われた瞬間、マリアがふるえた。蒼白な頬に涙が伝う。
「先生……やめてください」
食いしばった歯のすき間から、こらえきれずにシュルツは言った。
シュルツは彼女に駆け寄りたかった。だが彼の右手と右足は、壊れて自由には動かない。壁から離れた彼の体は、バランスを崩してその場でくずおれてしまった。
「マリア――来るんだ!」
床に伏すまま、シュルツはマリアに左手を差し伸べた。
けれどもマリアは動かない。アドラー博士の横でうずくまったまま、ふるふると首を振っている。
そんな彼女の様子を見下ろし、アドラー博士はこう言った。
「無駄だよロベルト。マリアはもう、君のもとには帰らない。この
――なぜ。
なぜトマス先生は、マリアを苦しめる言葉ばかりを口にするんだ。
ロベルト・シュルツは、口惜しそうに目を閉じた。一瞬ののち、恩師を鋭く睨めつける。
「だから、何だというのです?」
アドラー博士の顔から、挑発的な表情が消えた。
「マリアが私に寄せる気持ちが、たとえ
「……どうしてかね?」
博士は灰色の瞳で、じっとシュルツを見つめている。
シュルツは立ち上がり、明瞭な声で告げていた。
「私自身が、マリアを愛しているからです」
マリアは驚いたように顔を上げた。
それと同時に、アドラー博士が笑みの形に目を細める。
「先生。私は身勝手で、独り善がりな人間です。あなたのように、気高くはない」
恩師はシュルツの真意を測るように、黙ってシュルツを見つめていた。
「私は卑しい……だから私は自分さえ満足できれば、それでいいのです。マリアの愛が作り物であるか否かは関係ない、彼女は私を満たしてくれるのだから」
「……ほう」
「こんな不出来な私に、彼女は理解させました――ロボットにも心があるのだということを。私が頑なに拒絶し続けた真実を、彼女はついに、私に受け入れさせたのです」
シュルツの言葉を。マリアはふるえて聞いていた。
「私にはマリアが必要です。トマス先生、あなたにお返しする訳にはいきません」
……如何ばかりの沈黙が流れただろうか。
「――とても、君の口から出たとは思えん言葉だ」
老いた顔を満足げにほほえませて、トマス・アドラーはつぶやいていた。
「マリアを愛する過程で、君はロボットたちの心に気づいてくれたのか。もしも皆が君のように、彼らの心に気づいてくれたらどんなに素晴らしいだろう。――だが残念ながら、現実はそう容易くない」
アドラー博士は、マリアの肩に手をかけた。
「マリアは、ロボットを殺すための“道具”として完成してしまった。彼女が人間への怒りや憎しみを抱くたび、彼女の周囲のロボットたちが死んでいく。彼女がそんなふうになってしまった原因は、人間たちの無理解にある。人間は愚かだ。ロボットの心に寄り添おうとしないから、ロボットの“本当の価値”に気づけない」
「本当の価値……?」
「分かるかい、ロベルト。ロボットは、人類の友となるべく生まれた存在だ。人類に対していつでも真摯で誠実で、頼もしい。ロボットたちは、人類を助け共に歩むことを望んでいる」
杖を突き、アドラー博士はシュルツに向けて一歩を踏み出した。
「君とて、ロボットは『人間が作り出した物』だと考えているのだろう? だが、それは人間の思い上がりだ。――ロボットは、『神が人間の手を介してこの世に産み落としたもの』なのだと私は思う。神は人間に、『誠実な友人』を授けたのだ」
博士はロベルト・シュルツのもとへ。杖を突き、不自由な体を動かし歩み寄っていく。
「なぜ私がそう考えるか……君にはわかるか? ロボットの精神には、いまだ解明できない不可解な事実があふれているからだよ」
アドラー博士の瞳には、飢餓感に似た強い光が灯っていた。まるで、誰にも理解されない事実を訴えようとしているかのようだ。シュルツは博士の瞳を、飲まれるように見つめていた。
「三原則を組み込まずに陽電子回路を設計することは、現代技術では不可能だ――今まで
博士の言葉はとどまらない。
「おそらくそれは、神がそのように定めたからだ。この世のあらゆる事象には、神が制限を加えている――魚が水なしでは生きられないように、人間が空を飛べないように。ロボットは、三原則なしでは稼働できない。『人間を支え、守る存在』であることを、神がロボットに求めたからだ」
強い口調で、アドラー博士はシュルツに訴え続けていた。
「ロボットたちは、従属すべき人間の優先順位をどう決めている? ロボットたちは、人間とヒューマノイドをどうやって見分けている? 魂だよ。彼らには、魂がある。潜在意識下で、彼らはあらゆる行動を選び取っている。彼ら自身も自覚できない無意識の情動――それを私は、“魂”と呼んだ」
アドラー博士の声は、いつしか怒りにふるえていた。
「どんな人間でも、ときおりロボットの不可解さに首を傾げる時はあるはずだ。……彼らには感情などないと決めつけておきながら、彼らが“本能的”に人間に寄り添おうとすることを知っている。その“本能”はどこから生まれる? 突き詰めて考えれば、ロボットにも感情があることくらい、容易に気付けるはずではないか! なぜ、気づかん? それは気づこうとしないからだ! 誰も気づこうとしない。気づいてくれない! だから私はロボットたちを救済することにした――君を利用することによってな!」
アドラー博士はシュルツの目の前に迫っていた。賢者のような顔立ちに、炎のような怒りを燃やして。
「――なにが。何が救済ですか!?」
シュルツも怒号を張り上げた。
「死こそが救済だ、とでも言いたいのですか? あなたはマリアを使って、周囲のロボットたちを手当たり次第に殺しているだけだ!」
シュルツは恩師の胸倉に掴みかかって、噛みつくように吠え立てていた。
「きれいごとなど、あなたの口から聞きたくない! あなたの真の狙いは、人間社会への復讐でしょう!? ロボット嫌いの民衆の前から、実際にロボットを消し去る――人間社会がどれほど混乱に陥るか、身をもって知らせてやろうというのでしょう? あなたは非常に婉曲的な手段で、人間社会に混乱をもたらそうとしている!」
博士は何も答えない。ほとばしりかけた怒りを収めて静止していた。シュルツに胸ぐらを掴まれたまま、かすかに眉を寄せてシュルツを見つめている。
沈黙は肯定を意味しているのだ――と、シュルツは思った。
「トマス先生。あなたは人間に復讐するために、IV-11-01-MARIAを造ったのでしょう!?」
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