71.冥府のプシュケ

《1998年12月21日 9:20PM クレハ市内 メヒトバーン地区周辺》


 全盛期だった十八世紀まで、この古都クレハには南北に貫くように大きな河川が流れていた。この河川には未処理の下水がそのまま流されていたため、人口増加にともなって感染症などの衛生問題が深刻化していったという。

 問題の抜本解決がなされたのは十八世紀末のことだ。

 クレハ市全体を巻き込む大規模な土木事業によって河川は地下へと引き込まれ、地下には広大な下水道網が構築された――それがかの有名な“クレハの地下水道”だ。


 反政府勢力のアジトや戦犯の逃走場所として使用された歴史は、この連邦くにの民なら誰もが知っている。“クレハの地下水道”は、今なお街の静脈としての機能を維持し続けている。



 マンホールを通り抜けて縦穴に足を踏み入れるや、尋常ならざる世界がロベルト・シュルツを待ち構えていた。腐乱した臭気の充満した、極寒と轟音の闇。目と耳と肌と鼻が同時に危険を訴える。こんな環境に身を置いたのは初めてだった。

 

 墨より黒い暗闇で、何も見えない。はしごの手触りだけを頼りにして、下へ下へと降りていく。耳をつんざく激流の音は降りるごとさらに大きくなっていく。


 十メートルほど下ったろうか? 正確な深さなど知る由もないが、突然にはしごが尽きて、足元が空洞になっていた。その空洞は、おそらくトンネル状になって街全体に張り巡らされているはずだ。


 肌を突き刺す寒さが体をふるえさせる。しかし躊躇が許される状況ではなかった。ロベルト・シュルツは、未知の闇へと飛び降りる。


 ばしゃん、という音とともに落ちた。冷たい汚水がくるぶしから下を瞬時に濡らす――水の深さはくるぶし程度だ。助かった、水の流れは速くない。もし地下河川の主流に落ちていたら、流されてそのまま死んでいたかもしれない――そう思った瞬間に、背筋がさらに冷たくなった。


「……まるで冥府だな」


 そのつぶやきは、轟音にかき消されて自分の耳にも届かない。トンネル構造が、地下河川の水音を増幅させているのだろう。魔物の咆哮のごとき轟音。それ以外の形容が思い浮かばない。


 携帯していたペンライトで、そっと周囲を照らしてみた。自分がいるのは、細い通路だ。壁と天井はひとつながりの半円アーチ。太いトンネルがその先に通じている。

 泥っぽく汚れた壁に片手で掴まりながら、シュルツは太いトンネルへ足を進ませた。


 ――マリア。どうして、こんな場所に逃げた?


 理由は分かりきっている。追い立てられて、ここに逃げるしかなかったんだ。


 彼女の恐怖は、如何ばかりのものだったろう?

 彼女の瞳は、この暗闇にもすぐ慣れたはずだ。

 彼女の耳は、この轟音ノイズをすぐに最小化できたはずだ。

 寒さも臭気も、彼女の体ならすぐに順応したはずだ。


 それでもマリアは、おびえていたに違いない。人間を越える身体機能を持っていても、心は人間と同じなのだから。いや、人間以上に素直で弱くて清らかだから。


 冥府に堕ちたプシュケのように、マリアは不安におびえていたに違いない。


「……マリア!」

 かき消されても、叫んでいた。


 ――どうして私は、いつもマリアを苦しめるんだ?


 彼女には何の罪もない。なのに、『足手まといだ』『目障りだ』と手ひどく扱い続けてきた。“愛情”を訴えてくるたびに、異常と蔑んで彼女の記憶を奪ってきた。

 彼女に感情があるのだということは、本当は、早い頃から分かっていた。ただ認めたくなかっただけだ。

「どこだ、マリア!」

 何が楽しいのか知らないが、マリアはいつもニコニコ笑って、こちらに付き従ってきた。

 無駄に豪華な食事を作って、無駄に熱心に掃除を続けて。いつも同じ歌を歌っていた。

 まぶしく笑って、目を輝かせて、幸せそうに暮らしていた。


 そんな日常は、もう二度と帰ってこない。




 * * *


 ――来ないで。


 何度心の中でそう叫んだか。マリアはもう、覚えていない。


 トンネルの前方で、明かりが四つ動いていた。向こう側から、四人来る。

 当局の人間であることはあきらかだった。先ほども、そのまた前も、明かりを持って探るように歩いてくる男たちをやり過ごした。

 地下水道は、迷路のように細かい分岐が張り巡らされている。遠くで光を見つけるたびに、マリアは分岐した細道の壁に背中を押しつけていた。足元に、ちょろちょろと汚水が流れる。ネズミたちが、我が物顔で走り回る。マリアは悲鳴を噛み殺した。

 四人組の男が近づいてくる。頭上で明かりを振り回し、怒鳴るような声で離れたところの別集団に呼びかけているようだった。


 離れた場所から、応答するような声が聞こえた。二つの集団は合流しようとしているらしい。


 ――来ないで。


 四人組のかかげる明かりが、マリアの隠れる分岐路を照らした。光はマリアに当たる寸前で通り過ぎ、彼らは分岐路から遠ざかっていく。


 マリアはどうにか事なきを得た。でも。

「このままじゃあ……いつか捕まってしまう」


 ふるえる足を進めつつ、マリアには生き抜く策など何もなかった。『自分の身ひとつ満足に守れない出来損ない。人間の役に立つことさえできていない』――シュルツに言われた言葉が、何度も何度も頭の中にこだました。

 ドクター・シュルツの言葉は、本当にその通りだった。


 ――わたし、ドクター・シュルツに助けてもらってばかりだった。


 あの人はわたしを守ってくれた。こんなにバカで、何の役にも立たないわたしを。

 こんなわたしに愛されたって、嫌に決まってる。だからあの人は、わたしの記憶を消したんだ。恨む権利なんか、わたしには無い。


「ごめんなさい。ごめんなさい、ドクター」

 いつしかマリアの頭の中は、シュルツのことでいっぱいになっていた。


 ――もしもわたしが捕まったら……ドクター・シュルツは、どうなるの?

 分かりきっている。ヒューマノイドを隠した罪で、彼も逮捕されるのだ。そんなのは、絶対に嫌だった。

 だからこそ、当局に捕まるわけにはいかないのだ。あの人にこれ以上、迷惑を掛けないためにも。


 さまよう足が、地下河川の本流を通す太いトンネルにたどり着いた。半円アーチのトンネルの中、轟々という音が最大級に響き渡る。水の流れの両側には、一メートル幅で土手のような通路が続いていた。背中を壁に押し付けながら、マリアはその通路を進む。背中越しの壁から、じっとり冷たい汚泥の感触が感じられた。

 眼前で轟々と走る激流から、悪魔の声が聞こえた気がした。――いっそこのまま身を投げて、死んでしまったらどうだい?


 死……?

 マリアの脚が、はたと止まった。


 ……そうだ。“逃げ道”は……こんなに簡単なところにある。

 中途半端な死に方ではだめだ。IV-11-01-MARIAの死体から頭脳を取り出して記憶回路を調べれば、ドクター・シュルツが彼女を匿っていたことが暴かれてしまう。

 だったら、この激流に身をゆだねてしまえばいい。このまま死体も見つからなければ、あるいは頭脳を取り出せないほど壊れてしまえば、ドクター・シュルツは逮捕されずに済むかもしれない。


 悪魔に誘われるかのように、マリアはおぞましい濁流へと近づいていった。

 一歩。二歩。少しずつ死が近づいていく。

 濁流に足を踏み入れようとした瞬間、マリアの体は止まってしまった。

 ふるふると全身がふるえ、瞳から涙があふれる。


 ――どうして体が、動かないの?


 死ぬことをシュルツに禁じられているから、死ねないのだろうか? ロボット工学三原則の第三条が、マリアの自殺を阻んでいるのか? それともただの人間のように、死ぬのが怖くてためらっているのか? 分からない。もう、なにも分からなかった。

「!」

 マリアの足元で、何匹ものネズミが走り抜けた。理屈抜きの嫌悪感が、彼女の足を滑らせる。体がよろめき、頭から前へと倒れていった。

 ――あ。

 目の前に濁流が迫っていた。吸い込まれる、ようやく、この苦しみから解放される……?




「マリア!」 



 あの人の声が、唐突に背中で響いた。

 後ろから抱きとめる、荒々しい温もり。泥と水でびしょびしょに汚れた二本の腕に、マリアの体はきつく抱きしめられていた。


 彼女の体は覚えていた。背中に伝わるこの体温と、あの人の匂い。ヒューマノイド狩りで収容された彼女を、救い出してくれた温もりだった。


「ドクター……?」


 マリアは、頭が真っ白になった。

 シュルツの腕は驚くほどに強かった。死の濁流から引き離し、マリアを壁に押し付ける。

「馬鹿なことをするな!」


 轟音の中なのに。シュルツの声は、よく聞こえた。

 マリアの目から、ふたたび涙があふれ出し――


「放して!」

 想いと裏腹、マリアはシュルツを拒絶していた。


「放して。死なせて!」

 シュルツの両手を振りほどこうと、必死に暴れようとする。


「ふざけるな!」

 シュルツは彼女の頬を打ち、濁流に自分の背中を向けたまま、彼女を決して水に近寄らせなかった。


 それでもマリアは抗い続ける。

「いやよ!」

 自分が何に抵抗しようとしているのか、もはやマリア自身にも分からなかった。駄々っ子のようにしゃくりあげながら、ヒステリックにわめき散らす。


「わたしの生き死にを、あなたが勝手に決めないで! わたしは道具でも奴隷でもない。人間あなたたちに弄ばれる、都合のいい人形なんかじゃない!」


 力強い腕は、決してマリアを離さない。

 いつしか彼女は、シュルツの胸の中にいた。


「放して……あなたなんか。大嫌い」

 うそ。

 本当は、大好き。


「あなたなんか……嫌い。あなたは、ずるい」


 ぽつり、ぽつりと。抵抗したくてつたない言葉を並べていた。

 だけれどシュルツは怒らなかった。静かに聞いてくれたあと、一言だけ、

「すまなかった」

 とささやいた。

 マリアはもう、抵抗できなかった。



 轟音。静寂。轟音の中の静寂。

 マリアは、シュルツの胸の中で言葉を発した。


「ドクター。あなたが正しいんです。……わたしは出来損ないです。わたしの記憶は、全部間違っていたんです。わたしの父――アドルフ・エレットは、実在しません。父と暮らしたはずの屋敷も、どこにもありませんでした。わたしは誰の役にも立てない、出来損ないのロボットでした」


 マリアは勇気を振り絞り、泣きはらした目でシュルツを見上げた。

 シュルツの瞳は、驚愕の色に染まっている。


「お願いです、ドクター。わたしの頭脳に保存されている、あなたに関する記憶をすべて消してください」


 せめて、あなただけでも無事でいてほしいから。

 マリアは彼にそう言おうとした。だけど。

「もう手遅れだ」

 怒ったようなシュルツの声に遮られ。マリアのくちびるは止まった。

「……愛するなというのなら。もう、手遅れだ」

 くちびるを。奪われていた。



 ほどなくして現れた当局捜査官に捕えられ、ふたりは引き離された。

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