67.罪深き手
《1998年12月21日 8:00PM クレハ市内 メヒトバーン地区》
「あんな所に、まさかあんたがいるとは思わなかったよ」
ベイカーに渡されたぶかぶかのシャツを羽織って、マリアはソファに浅く腰掛けていた。
青白い顔でうつむいたまま、身をこわばらせて座っている。
「適当にくつろいでろよ。いま、温まるもん作ってやるから」
部屋に備え付けの冷蔵庫から赤ワインのボトルを取り出しながら、ベイカーはマリアをちらりとふり返った。無言のままの華奢な背中を眺めて肩をすくめてから、ボトルの栓を開ける。
「行くとこがねぇなら、今晩はここに泊めてやるよ」
ブラジウス・ベイカーが滞在しているホテルの一室に、マリアは身を寄せていた。簡易なキッチンの付いている広々とした部屋で、さっぱりとしている。
ベイカーはワインを入れた小鍋に砂糖と香辛料を足して、コンロで火にかけた。
「で? なんで、あんな所を一人で歩いてたんだ?」
マリアは背中を向けたまま、つぶやくように口を開いた。
「……あなたこそ。どうして、こんなところに?」
ブラジウス・ベイカーは当局の捜査官――つまりは、敵だ。信用なんかできない。昨日のヒューマノイド狩りだって、当局が行ったのだから。
マリアは、灼けつくような胸の痛みを抑えながら身を固くしていた。
「俺か? 休暇だよ、休暇。婆さんの墓参り。言わなかったっけ? 俺の婆さん、映画を見てクレハの街に惚れ込んで、墓をわざわざクレハに建てたって。で、俺は今から歓楽街で愉しい夜を過ごそうと思ってたら、あんたを拾った。と」
マリアの胸の内に気づくはずもなく、ベイカーは明るい声で答えていた。
お互いに背を向けたまま。ベイカーの声だけが部屋の中に響いている。
「この
――“拾い物”? わたしは、物じゃあないわ。
マリアは、心の中でそうつぶやいた。
湯気のたつワインを二つのマグカップに注ぎ分け、ベイカーはマリアのソファまでマグカップを運んだ。
横からマリアを覗き込み、ベイカーは穏やかな声で尋ねてきた。
「泣いたり、叫んだりすりゃ良かったんだ……なんで奴らに抵抗しなかった? 危うく、気づかずに通り過ぎるとこだったぜ?」
マリアはきつく目を閉じ、うつむいたままだった。
――わたしが抵抗できなかったのは、怖かったから? いいえ違う。きっと、わたしが
か細い肩が、小さくふるえた。
「ほら、飲めよ。グリューワイン。あったまるぜ?」
ベイカーはマリアの隣に腰かけて、マグカップをさし出してきた。
カップから立ちのぼるアルコールの蒸気と香辛料に鼻腔を突かれて、マリアは思わず顔を背けた。お酒なんか、飲みたくなかった。
ベイカーは優しいため息をついてから、再び立ち上がっていた。冷蔵庫からミルクを取り出し温めて、マグカップに注いでふたたびマリアの隣に戻ってくる。彼女の前のテーブルに、静かに置いた。その仕草は、まるで迷子の仔猫に与えるようだった。
マリアはミルクの入ったマグカップを覗きこんだ。なにも飲みたくない。でも飲まなければいけないだろうか? 飲まなければ、ロボットだと疑われるだろうか。もしロボットだと分かったら、この人はきっとわたしを殺す……
涙が頬を伝ってこぼれ、ミルクの中に落ちていった。
――どうして、人間のふりをし続けなければいけないの? 演じ続けることに、何の意味があるの?
この国は、
――ありのままのわたしでは、どうして許してもらえないの? わたしはロボットだけれど。わたしは、道具でも奴隷でもない。
マリアの目から、涙はいつまでも流れ続けた。
その横顔をじっと見つめていたブラジウス・ベイカーは、手を伸ばし、彼女の頬から涙をぬぐい取っていた。
「!」
いきなり触れられて、マリアはびくりと身をこわばらせた。
「やめてください」
「ドクター・シュルツと、喧嘩でもしたか? 顔、見りゃわかる」
唐突に言われ。マリアはどう切り返したらいいか分からなくなった。
「泣くなよ。俺はあんたの笑顔が好きだ」
子供みたいに歯を見せて、ブラジウス・ベイカーは笑っていた。そんなに優しい顔をしないでほしかった。当局の捜査官のくせに。敵のくせに。……わたしがヒューマノイドだと知ったら、殺すくせに。
「……やめてください」
この人は、ロボットのことを、“鉄クズ”と罵る。
この人は、ロボットを仲間だと主張するクリスのことを“現実逃避のガキ”呼ばわりする。
そしてこの人は、『いままでたくさんのヒューマノイドを捕まえて殺してきた』と自慢していた。殺したヒューマノイドの数が、そのまま自分の地位につながった、と。わたしの正体を知れば、この人は自分の地位を高めるためにわたしの命を摘み取るはずだ。
「触れないで」
マリアのくちびるは、独りでにそうつぶやいていた。
「ヒューマノイドを殺したその手で、わたしの体に触れないで」
ブラジウス・ベイカーの手が、ぴくりとふるえて静止した。
涙を溜めてにらみつけてくるマリアを見つめ、ベイカーは彼女を手放し居ずまいを正した。
「……マリア?」
「その手で。何人殺したんです?」
――わたしの“仲間”を。あなたは何人殺したんですか?
「…………六二八体だ。そのうちの十九体は、昨日の狩りで追加された」
ブラジウス・ベイカーは静かに答えた。彼の顔から、いつしか表情が消えている。
「なぁ、マリア。俺は、ヒューマノイドなんか存在しなりゃいいと信じている。あんなもん、人間とロボットの境目を曖昧にして、余計な苦しみを生むだけだ」
マリアの表情をうかがうように凝視しながら、ブラジウス・ベイカーは一語一語を連ねていった。
「マリア。俺は、ロボットが怖いんだ。最近のロボットは、人間よりも知能が高く、力も強く、人間以上に道理をわきまえている……そういう意味じゃ“人類の理想像”みたいなモノなんじゃねぇかと感じている。けどな。ロボットが人間の理想像に近づけば近づくほど、
ブラジウス・ベイカーはマリアを押し倒していた。
「っ!?」
突然のことに、マリアは対応できなかった。
「――ぃや、放し、」
彼女の言葉は、途中で途切れてしまった。ベイカーが、彼女の胸にペンライト状の装置を突きつけてきたからだ。
“後方散乱エックス線装置”。人間とヒューマノイドを識別するための装置だ。
「……マジかよ」
いつの間にか
組み敷かれて凍りつくマリアと。彼女を見下ろし愕然とつぶやくベイカー。
「マリア。お前も……ヒューマノイドだったのか」
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