66.救いの手

《1998年12月21日 7:30PM クレハ市内 メヒトバーン地区》


 行く場所も帰る場所もない。

 どこを、どう歩いたのか。

 マリアは覚えていなかった。


 疲労を感じない彼女の体は、休息を必要としない――だからこそ、何時間でも、さまよい歩くことが出来たのだ。


 いつしか彼女が歩いていたのは、毒々しいネオンライトが照り輝く歓楽街のような場所だった。彼女の記憶の中のクレハ市には、こんな場所はない。


 そういえば、かつてシュルツが言っていた気がする。戦後の焼け跡に、闇市場と風俗街が出来てクレハは廃れてしまった、と。だがその会話の記憶さえ、マリアにとっては信頼できないものだった。


 うつろな目をして、夜の街をふらふらと歩く。精神回路に混乱をきたしたロボットは、まれに徘徊行動を起こすことがあるのだが――彼女にはそれを知る由もない。枯れた涙の跡をほほに残したまま、いかがわしい店の居並ぶ細道をさまよっていた。

 だから。

 下卑た男たちが彼女を獲物と定めたのは、当然の帰結と言えた。


 いきなり後ろから、強く肩をつかまれた。

「――――っ!?」

 マリアは心臓を鷲づかみされたように驚いて、硬い動きでふり返った。

 今まで彼女が見たこともないような、濁った目をした男たちだった。


「……どなた、ですか」


 瞳と同じくらい濁った声で、男たちは汚く笑った。

「ハハハ、『どなたですか』、と来たか!」「まるで金持ちのお嬢さまだ」


 男たちの舐めるような視線が、マリアの全身を這い回っていく。

 後ずさろうとしたマリアの頬を、一人がつかんで引き寄せた。アルコールと何かの薬のような臭いが、マリアの鼻腔に突き刺さる。

「――いや!」

 こみ上げる嫌悪感に突き動かされ、マリアは男の手を払い落として駆け出していた。


 手を払われた男は無様に昏倒する――彼女の力が思いのほか強かったことに驚いたようだった。だが他の者が先回りしてマリアの行く手をふさいでいた。一人。二人。獅子の群れに挟み撃ちにされた草食獣のように、彼女は逃げ場を失っていた。


「近寄らないでください!」

 迫ってきたいやらしい顔を、マリアは平手で思い切り叩こうとした。

 だが。

「――――!?」

 手が、動かない。男の顔面に直撃する寸前で、叩こうという意思とは裏腹、マリアの手はぴたりと静止していた。


 ――どうして?


 混乱する思考の糸を束ねるより早く、マリアの頬に火を噴くような激痛が襲った。叩こうとしていた男に、逆に殴り倒されていたのだ。

 声にならない悲鳴がくちびるから漏れる。華奢な体は地面に押し付けられていた。

「放して!」

 身をよじり、力を込めて跳ね起きようとする。彼女を押さえつけていた何本もの腕が、振り落とされかけた――しかし。

「このアマおとなしくしろ!」

 命令された瞬間に、マリアの体は、金縛りのように動かなくなっていた。


 ――動けない……どうして!?


 手間かけさせやがって。さっさとやっちまおう。金目のものは持ってねぇのか。それぞれの口が好き勝手なことをしゃべり、それぞれの腕が無遠慮にマリアを抑え、あるいは衣服を剥ぎ取ろうとする。


「抵抗すンな。言うことを聞け!」


 そう吠えられて、彼女はようやく理解した。

 三原則だ。

 ロボット工学三原則が、彼女の動きを束縛しているのだ。


「こりゃあ、上玉だ」

 この汚らしい“人間”たちに、マリアは危害を加えることが出来ない。命令されたら抵抗できない。第三条の自己防衛は、第一・第二条の前では無力だ。


 《ロボットは、道具だ。ロボットは、奴隷だ》


 その事実が、悪夢のようにマリアの体に乗り上がる。目からは涙があふれていた。

 ――奴隷?

 ブラウスを引き裂かれた。真冬の空気が、素肌に直接突き刺さる。

 ――わたしの……わたし自身の気持ちは?

 

 卑しい声と。卑しい目。濁って汚い、彼らの吐息。

 仰向けに抑えつけられた彼女の瞳に、真冬の夜空が映り込む。空は冴え冴え、澄んでいた。遠くて。冷たい。彼女の痛みを、空は冷たく見下ろしていた。


 ――人間は、卑怯だ。

 死肉に群がるハイエナのように、人間たちは、無抵抗なマリアを弄ぼうとする。


 ――人間なんて、いらない。人間なんて、誰も……

 灼けつくような全身の痛みに襲われながら、マリアの心が“人間”すべてを呪おうとしたそのとき。


「おい、テメェらそこで何してンだ!?」


 力強い声が、雷のようにとどろいた。と同時に、マリアの脚に乗りあげていた重量が消失する。


 誰かに殴り倒されて、暴漢はマリアから引き剥がされた。なんだ、テメェは。――暴漢たちは、そんな陳腐な怒声を上げた。


 マリアを助けに入ったのは、黒髪黒肌の大男だった。二メートル近い身長と、鍛えこまれた全身の筋肉。十二月も末だというのに、相変わらずデニムパンツにレザージャケットというカジュアルな出で立ちの……


「俺か? 俺は――」

 暴漢からマリアを遮るように立ちふさがり、よく響く声で“彼”は言った。


「俺は刑事だ。っても、ロボット専門だけどよ」


 マリアに背中を向けたまま。“彼”は勢いよく滑り出して、暴漢たちと揉みあいを始めた。揉みあっていたのは最初の数秒だけだった――あざやかな体裁きと容赦ない打撃。あっという間に“彼”は勝者になっていた。


「かたぎの女で遊んでねぇで、商売女と屋根のある場所でやってろよ。俺の目の前で、汚ねぇモンオッ立てンな。ったく、こっちは休暇中だってのに」


 畜生、覚えてろ! ――陳腐な悪党には、陳腐な捨て台詞しか言えないらしい。

 暴漢どもが逃げ去って、辺りは静けさに包まれた。

 マリアは地面に膝をついたまま、信じられないと言った顔で“彼”の背中を凝視している。

 ふぅ……。と“彼”は息を吐き、運動後のクールダウンと言わんばかりに肩の筋肉をほぐしていた。着ていたジャケットをおもむろに脱ぎ、


「着な、風邪ひくぜ」


 ジャケットを差し出しながら、涼しい笑顔で後ろをふり返った。

「ベイカーさん……」


「……………………………………!? お前、マリアじゃねぇか!」

 “彼”――当局捜査官ブラジウス・ベイカーは。助けた女がマリアであったことに、ようやく気付いたようだった。


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