60.雪の中

《1998年12月21日 4:40AM エルハイト市内 旧道》


「ドクター。……ごめんなさい」


 車の中まで、しんしんと。外の寒さが窓ガラスから射しこんでくる気がした。雪はいまだに降り止まず、すっかり積もって周囲の景色を染めている。


 唐突に謝られ。シュルツは助手席のマリアをちらりと見た。

 白い顔をますます青白くさせたマリアは、しおれかけた百合の花のようだった。


「わたしのせいで。たくさんのヒューマノイドが死んでしまったんですね」


「自分を責めるな。何かのはずみでまた“波及性灼血”とやらを起こしかねない」


 シュルツが淡々として答えると、マリアは消え入りそうな声でつぶやいた。


「ドクター。わたし、欠陥品なんです。……あの人たちに、言われました」

 懺悔するように彼女は言った。

 シュルツがふたたび彼女を見ると、彼女は不安そうな眼差しをシュルツに向けてきた。


「ヒューマノイド狩りで捕えられた、あのたくさんのヒューマノイドたち。わたしはあの人たちのこと、気持ち悪いと思いました。だって。あの人たち、苦しみや悲しみを完全に抑え込んで人間の利益だけを考えるんですよ? ……それじゃあ、あの人たち自身の幸せは、どこにもないじゃないですか? わたしなら、耐えられない。だからわたし、彼らを異常だと思いました」


 悲しそうに、マリアは付け加えた。


「でも。そんなふうに考えてしまうわたしのほうが、本当は異常だったんですね。わたしの精神回路には、欠陥があるらしいです……だからわたし、我慢が出来ずに泣いたり怒ったりしてしまうんです」


 つぶやきながら、マリアは泣き出しそうだった。


「……ドクターも、わたしが異常だから、避けていたんでしょう?」


 何と答えるべきだろう。自分は何を言うべきだろう。ロベルト・シュルツは分からなかった。


「私が君を避けたのは。君が異常だからではなく、『私が卑怯だから』だ――」

 窓ガラスの向こうを見つめてハンドルを切りながら、シュルツは冷めた声で言った。

「え?」

「――と、君が以前に言ったんだ。私のことを、『卑怯だ』と」

「わたしが? ……あなたに、そんなひどいことを言ったんですか?」

 かつてマリアはシュルツに感情を否定され、泣きながら怒ってそうつぶやいたのだ。


「ごめんなさい……ドクター」


 長い息を吐いてから、ロベルト・シュルツは言った。

「君の精神回路は、確かに特異的だ。それを『異常』と呼ぶべきかどうか、私は知らん。……トマス先生なら、絶対に『異常』とは呼ばないだろう」

 恩師の笑顔を思い出し。シュルツは少し、もの悲しげな表情になった。


「トマス先生は、ロボットに感情があるということを本当に知っていたのだな。私の視野は狭すぎた。君たちロボットにも、確かに感情や自我がある……だから君は今日、生き延びることができたんだ。君を生かしたいという同胞ヒューマノイドの希望を受けて。……それを忘れてはいけない」


 あのヒューマノイドたちが、今頃どうなっているか。シュルツにはよく分かっていた。シュルツは、彼らに“自殺”を命じた……だから今頃、彼らはすでにこの世にいないだろう。


 彼らの死を知ったら、マリアはどう思うだろうか? 


「わたしが生き延びられたのは、あなたが助けに来てくれたからです。……ご自分の右腕を、壊してまで」

 マリアの視線が、シュルツの右腕に注がれている。


「どうして義手なんですか?」


 プライベートに踏み込むな、と言って睨みつけようとした。が、シュルツには出来なかった。子供の頃、凍えた子犬を拾おうとして親に叱られたことがあるが――今のマリアは、そのときの子犬と同じ目をしている。


「十四年前にC/Feシー・フィ事件に巻き込まれて、右の手足を失った」

「C/Fe事件……ヒューマノイドが人間を死なせたという事件ですね」

 シュルツはうなずいていた。


「ミドルスクールの課外授業で、偶然あの場に居合わせた。目の前のすべてが消失して、目覚めた時には病室だ。ヒューマノイドの開発者であるトマス・アドラー博士は、被害者の支援に全力を注いでいた――私に義肢を与えたのもトマス先生だ」


「じゃあ、あなたはその時からずっと、トマス・アドラー博士を尊敬しているんですね」


「いや。初めはひどく憎んでいた」


 マリアは、意外そうな顔をしている。

「トマス・アドラーがヒューマノイドなど生み出さなければ、こんな目には遭わなかったのだ、と。トマス先生が初めて面会に来てくださった日には、罵倒して追い返した」

「じゃあ、どうして?」

「……どうしてだろうな」

 シュルツの口元に、ふと寂しげな笑みが浮かんだ。


「誰かの優しさに、すがりつきたかったのかもしれないな」


 絶対に自分を裏切らない人間の、近くにいたい。最初の理由はそれだけだった。

 トマス・アドラー博士は、自分に対して負い目がある。だから絶対に裏切らない――そう考えた十四歳のロベルト・シュルツは、アドラー博士に庇護を求めた。逃げ出すように父母のもとを離れ、アドラー博士の屋敷に押しかけた。ある意味では、アドラー博士の優しさを利用したと言ってもいい。


 アドラー博士はシュルツを追い出すこともせず、生活の場を与えてくれた。その後十年間、ふたりはともに暮らしたのだ。


「……トマス先生は、私を受け入れてくれた」

 特別なことは何もない。ただ同じ屋敷で暮らし、毎日ともに食事を囲み、他愛のない会話を交わした。まるで、ありふれた親子のように。


 ただ、そんなありふれた親子関係を、ロベルト・シュルツは今まで味わったことがなかった。親から得られなかった愛情を埋め合わせるかのように、シュルツは“トマス先生”に心酔していった。


 雪色のひげと頭髪。トマス先生は、まさに古典文学に出てくる老賢者のような姿をしている。外見だけではなく、内面もまた高潔な賢者に違いないとシュルツは思った。ロボットに接するときの、あの慈悲深い顔。トマス先生は、人間にもロボットにも分け隔てなく接する。『トマス先生がロボットをこれほどまでに愛するのだから、自分も努力をしてみよう』――そう思って、シュルツ自身もロボット友愛主義を学ぼうとしたこともある。結局は徒労に終わったのだが。


 ロベルト・シュルツはトマス先生のすべてが好きだ。仕事中の、完全無欠な知性の顔も。天涯孤独の身の上で、ときおり見せる寂しげな顔も。嬉しいことがあったときの、温もりのある笑顔も。――先生は、子供のように生き生きと笑う。その笑顔が、たまらなく大好きだ。


「先生は私を救ってくださった。だから私は、先生の恩に報いたい……それだけだ」

 横顔に彼女の視線を感じながら、シュルツは静かに口を閉じた。


 車内はふたたび静寂に包まれていた。降り積もる雪が、タイヤの音を吸っていく。旧道沿いの古びた家屋の群れが、左右の視界に流れていく。

 降り積もる雪のように、真白い沈黙。

 その静寂は、いったいどれほどの間続いていただろう。


「――あの映画キネマは、」


 沈黙を破ったのは、シュルツのほうだった。

「え?」

「あの映画の結末は、どうなるんだ?」

 脈絡もなく。シュルツはいきなり、マリアに問うた。

「映画……ですか?」

 どうしていきなり、映画の話を? ――マリアの瞳が、そうたずねてきた。

 シュルツ自身も分からない。口から勝手に出ただけだ。


「君の好きだという、あの古い映画だ。あれは、どんな物語なんだ?」


 マリアは首を傾げていたが、そっと語り始めた。

「……あの映画のヒロインは、働いているお屋敷の主人と愛し合うんです」


 車窓の外は、辺り一面。静かな雪の降り積もる、無彩色の世界だった。マリアの声は真白い雪に重なって、ひっそりと降りつもっていく。


「でも身分が違うから。二人の愛は引き裂かれて。戦争にも、巻き込まれて」

 ぽつり。ぽつり。小さな声でささやき続ける。


「クライマックスで、ヒロインは愛する人を救うために、地下水道に逃げ込むんです。冥府のような闇の中を、ひとりぼっちで走ります。でも……追っ手の凶弾に倒れて」

 シュルツは彼女の声を黙って聞いていた。


「命はとりとめますが、昏睡状態に陥ってしまいます。戦争が終わって平和な時代が訪れても、彼女だけは救われません。でも……最後に……」


 マリアの表情は、少しずつ柔らかくなっていった。青白かった彼女の頬に、わずかに赤みが戻っている。


「生きて帰った愛する人が、眠ったままのヒロインに口づけするんです。その口づけで、ヒロインは永い永い眠りから目覚めます。そしてふたりは、いつまでも幸せに暮らすんです。――モチーフになっている、ギリシャ神話のプシュケとアモルの恋物語のように」


「“プシュケ”と“アモル”?」

 そこまで聞いて、シュルツはふいに口を挟んでいた。


「ご存じなんですか?」

「知っている。アプレイウスの小説『変容』の挿話エピソードだろう? ギリシャ神話を題材とした、“プシュケ”と“アモル”の物語だ。……なんだ。その映画は『変容』のオマージュなのか」


 表情も変えず、淡々と答える。マリアが奇妙な表情になっていることに気づかず話し続けていた。

「ドクターは、そういう小説も読むんですか?」

「子供の頃にな。他人と話すのが苦手で、一人で本ばかり読んでいた。あの頃は、神話や民話をよく好んで――」

 口が滑って、余計なことを言っていた。ふいに気づいて口をつぐむ。


「……ものすごく意外です。ドクター」


 マリアに馬鹿にされた気がして、シュルツは眉間にしわを寄せた。

「黙れ。――それにしても手垢の付き切った、ありがちな結末だな。その映画、本当に面白いのか?」

「おもしろいですよ。最高の物語です」

 マリアは少し笑顔を取り戻し、明るい声を出そうとしていた。

「ラストシーンは、涙が出ます……まるで世界から祝福されるみたいに、春の陽ざしに包まれて、羽ばたく蝶に囲まれて。愛する人のキスで生き返るなんて、とってもすてきじゃないですか」

 運転席のシュルツを見つめ続けていたマリアは、正面に向き直ってささやいた。

「……ドクターがプシュケの恋物語を知ってたなんて。ぜんぜん似合いませんね」

「そんなものは一般教養だろう」

 雪景色の中を走る車は、ほどなくして第六検死研究所に帰り着いた。



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