54.赤髪の整備士

《1998年12月21日 0:40AM ナヴァ市内》


 真夜中の闇を、二人が駆ける。ふたりは逃げる。追う者はいない。

 ロボット解体作業場を逃げ出してから二時間、ほとんど走り通しだった。


 昼過ぎから降っていた雪は、相変わらずちらちらと降り続けている。石畳は降り積もる雪で白く染まり、足場が悪くて何度か滑った。


「ドクター……大丈夫ですか?」


 シュルツの肩を支えて進みながら、マリアは心配そうな顔で言った。

 ロベルト・シュルツは答えなかった。答える余裕がなかったからだ。

 凍てつく寒さの中で休養も取らず何時間も走りつづけられるほど、シュルツの体は強靭ではない。生身の人間なら当たり前だ。


 マリアが呼吸を乱さずに走り続けていられたのは、彼女がヒューマノイドだからだ。ヒューマノイドの運動性能は、人間とは比較にならないほど高い。


 呼吸を乱し血の気の引いた顔をして、それでもシュルツは進もうとしていた。目的地まで、あと少しのはずだった。

 だが。

 足がもつれ、ロベルト・シュルツは崩れ落ちた。


「ドクター!?」


 悲鳴のように叫んで、マリアは彼を抱き起した。しかしシュルツの意識は朦朧として、立ち上がることが出来なかった。

「しっかり……しっかりしてください! 死なないで……」


 ――馬鹿者め……、死んでたまるか……。


 憎まれ口をたたく余裕もなかったが、シュルツはかじかむ左手で、ズボンのポケットから一枚の便箋を取り出した。

「……この場所へ」

「え?」

 突然に便箋を渡されたマリアは、その便箋に目を落とす。どこかの大学の研究者が、シュルツ宛てに書いた手紙のようだった。ある人物の名前と住所が書かれている。その人物の名は――


     Renate Van Lent


「レナーテ・ファン・レント?」

「この近くで、工房を……営んでいるはずだ……」

 上がり切った息で、シュルツは途切れ途切れに言った。

「そこまで、行ってくれ……」

 これは一体だれなんですか――マリアは問おうとしたそのとき。シュルツはがくりとうなだれて、そのまま意識を失くしてしまった。

「ドクター! ドクター」

 彼女が必死で揺さぶってみても、シュルツは反応しなかった。


 ――行くしかないわ。


 マリアはか細い体で、シュルツを背負って立ち上がった。




 “職人通り”という名のついた細い通りに、レナーテ・ファン・レントの工房はあった。古めかしい木組み造りの、ロボット整備工房だった。

 シュルツを背負ったまま、マリアは閉ざされている木戸の前に立った。

 古びた木戸を、おそるおそる叩いてみる。


 反応がない。

 こんな真夜中に来客があっても、出てきてくれないんじゃないかしら……? そんな不安がマリアの胸によぎった。


「夜中に、すみません。……開けてくださいませんか」


 湿度を持った冷たい北風が、横からすり抜けていく。

 ――寒い。

 ロボットである自分でも、この寒さはつらいのだから。人間シュルツをこれ以上寒さの中に居させたら、凍え死んでしまうかもしれない。


「……お願いします。開けてください。――お願いします!」


 いつしかマリアは、大きな声で叫んでいた。


「助けてください! ここを開けて――」


 雪にかき消されないよう、どん、どん、と大きな音でノックを重ねる。

「お願い!!」


 涙まじりで叫んだとき。 

 ガタッと軋んだ音がして、木戸がわずかに横に開いた。


 木戸の隙間から、工房の中の光が射し込んだ。

 内側から、誰かがこちらを睨んでいる。

「……………………誰?」

 翡翠のような緑の瞳。切れ長の目。気の強そうな、女性の目だった。


 こんな夜中に、なんの用? ――その女性の苛立ちが、突き刺さるほど伝わってきた。マリアは一瞬たじろいだが、


「あの……」

 必死の思いで、訴えていた。


「助けてください。このままじゃ、凍え死んでしまいます」

 すがりつくような目で、訴え続けた。

「この人だけでも、中に入れてあげてください!」

 木戸の向こうの女性の目は、面倒くさそうな表情をしていた。大きなため息が聞こえた。だが、その直後。


 ぎぃ――


 乾いた音を響かせて扉が開き、内側の光が伸びていった。


 内側で立っていたのは、背の高い赤髪の女だった。赤ワインのような色をした髪を、男のように短く切っている。胸から腰にかけての豊かな曲線を想起させる薄手の白ネグリジェの上に、赤いガウンを羽織っている。目鼻立ちのはっきりした、気の強そうな美人だった。年齢は、シュルツと同じか少し上に見える。


「………………で、誰? あんた」


 ぽかんと口を開けて立ち尽くしているマリアに向かい、女は心底不愉快そうな声でそう言った。今にも再び扉を閉めてしまいそうな、邪慳な態度だ。

 こんな真夜中に見しらぬ者に突然押しかけられたのだから、無理もない。

 勝気な美貌に気圧されそうになりながら、マリアは必死に言葉を絞り出そうとした。

「あの……」

 何と言ったらいいのだろう。何が何だかわからないまま、シュルツに言われてここに来たのだ。

「ん?」

 細い眉を吊り上げて、女は首を傾げていた。

 マリアがその背に誰かを背負っているのだということに気づいて、女はマリアの背中を覗き込んだ。女の瞳が驚愕に染まったのは、そのときだった。


「ロベルト!?」


 女は叫んだ。

 マリアの背中で気を失っている、ロベルト・シュルツを見つめながら。

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