45.穏やかな時間《中編》
《1998年12月20日 9:45AM エルハイト市内 ビアンカ・メグレー孤児院》
吐息を白く色づかせ、マリアは急ぎ足だった。
十二月の空気は冷たい。だけれどそんな冷たさは、少しも苦にならなかった。
――急がなきゃ。クリス、きっと待ってるわ。
今ごろクリスは面会室で、マリアが来るのを首を長くして待っていることだろう。そう思うと、マリアの心も温まる。早く行かなきゃ。早く会いたい。マリアは、“ビアンカ・メグレー孤児院”に到着した。
門前で、クリスへの面会を申し出た。するとマリアを面会室に連れて行くために、年老いた先生がひとりやって来た。いつもの流れだ。すっかり顔見知りになったその先生と、会話をかわしながら面会室に向かうのが日課のようになっていた。
「マリアさん、ありがとうございます。あなたが来てくれるようになってから、クリスは本当に明るくなったんですよ」
先生はゆったりと歩きながら、そう言った。
マリアは先生の横顔を見た。丸眼鏡と目じりのしわが印象的な、穏やかな雰囲気の老年女性だ。先生は、遠い昔をふり返るような表情をしていた。
「誰にも心を開けない子だったんです。……無理もありません。あの子は幼いとき、とても怖い思いをしたから」
「怖い思い……ですか?」
過去を悔いるような表情で、先生は眉を寄せていた。
「クリスはね。五歳のときに、ヒューマノイドに拉致されたことがあるんです」
「え? ……拉致?」
思わずマリアは問い返していた。――拉致? クリスが教えてくれた思い出話とは、ずいぶん違う。
「はい。ちょうどあの子が五歳になった、クリスマスの日でした。子供たちみんなを連れて街に出ていたとき、あの子は一人ではぐれてしまいまして……」
迷子になったクリスは、逃亡中のヒューマノイドたちに拉致されてしまった――先生は、悲しげな顔でそう告げた。
「そのヒューマノイドの男女は、クリスを拉致して自分たちの息子であるかのように装い、三年間も偽の家族を演じていたのです。最終的に当局が彼らを回収し、クリスを保護してくれたのですが……」
マリアは沈黙した。理解してしまったからだ――この先生も、ヒューマノイドを嫌っているのだと。
――偽物の家族?
違う。クリスは、その“夫婦”をパパ・ママと呼んでいるのに。誰より大事な家族だったと思っているのに。
クリスが何と訴えても、この先生は聞く耳を持たなかったのだろう。この先生だけではなく、たぶん誰ひとり、クリスの言葉を信じなかったのだ。
「マリアさん、あなたは『狼に育てられた少女』の話を知っていますか? クリスはまるで、その少女のようです。人間には心を開けず、ロボットばかりに固執してしまう。あの子の心を開いた人間は、あなたが初めてなんですよ」
先生はゆっくりと歩を進めながら、少し嬉しそうにこう言った。
「あの子がこれから、いろいろな
先生の歩く速さに合わせ、マリアもゆっくり並んで歩いた。
なにか言うべきか、否か。
しばらく判断に迷っていたが、マリアはやがて、つぶやくようにぽつりと言った。
「……だいじょうぶ。クリスは、ちゃんと心を開いてくれますよ」
言葉を選ぶようにして、マリアはぽつり、ぽつりと告げた。
「……もしも。皆があの子の言葉を、ちゃんと信じてくれるなら。クリスはきっと、皆に心を開くと思います」
* * *
「マリア!」
面会室に入るやいなや、クリスは彼女に飛びついて来た。
「遅いよマリア! ずっと待ってたんだから」
クリスの姿は、母親に甘える子供のようだ。マリアにしがみつきながら、とろけるような笑顔を浮かべていた。それを見て、マリアの顔も自然とほころぶ。
「待たせてごめんね、クリス。――それと、ロビィも。お待たせ」
クリスの肩の上に座っていた手のひらサイズのロボットが、挨拶のように片手を上げた。
クリスはマリアの手を引いて、力強く歩き出す。
「マリア! 勉強おしえて。学習室、取っといたんだ」
ビアンカ・メグレー孤児院の学習室は、長机と長椅子が五列ずつ並んだ、小教室のような部屋だった。その一角を陣取るように、クリスは教本をバリケードのように高く積み上げて何人分かの席を独占していた。石油ストーブの熱が一番よく届く、一番いい場所だ。他の子供は誰もいないから、今はどの席をどう使っても問題ないのだが。
「クリス。あったかい場所を独り占めしちゃだめよ? 他の子が来たら、仲良く分け合わなきゃ。ね?」
「いいじゃん。どういせ他のやつなんか来ないよ。それより早く、勉強べんきょう」
クリスにせがまれ、マリアは困ったように笑いながらコートを脱いで腰かけた。
「……昨日の宿題。ちゃんとできた?」
「もっちろん!」
少年が、誇らしそうにノートを開く。丸っこい字で書かれた文章が、ページいっぱいに書き込まれていた。
マリアはノートを受け取って、一行一行にゆっくりと目を通した。長いまつげをそっと伏せ、淡くほほえみながら読む。彼女の仕草を、少年はうっとりと見つめていた。
やがて彼女は顔を上げ、大輪の花のように笑った。
「すごいわ、クリス。完璧よ」
「やった!」
「昨日の宿題、ちょっと難しかったでしょ? なのにすごいわ。あなたはとても賢いのね」
「そんなことないって。えへへ」
クリスは彼女にすり寄って、甘えるような声で言った。
「マリアが、毎日おしえてくれるからだよ」
上目づかいの笑顔がとてもかわいくて、彼女はクリスの頭をなでた。
そのとき、
「おや、マリアさん。今日も、すみませんね」
学習室に先生がひとり入ってきた。頭髪の少ないその先生を見た瞬間、クリスの態度ががらりと変わる。
「ちぇ。邪魔すんなよ、ハ~ゲっ」
クリスは舌を出して、おちょくるような声で言う。マリアは慌ててクリスの口をふさいだ。
「い、いえ! わたしなんて部外者なのに。良くしてくださって、本当にありがとうございます」
禿げた頭を掻きながら、先生は苦笑していた。
「その子、誰にもなつかないんですよ。あなただけは特別みたいで。つい最近まで、アルファベットさえ満足に書けなかったんですから。あなたのおかげで、見違えるようです」
「マリア~、早く~教えてぇ~」
マリアの指の隙間から、クリスが甘えた声を出す。先生は、笑いながら学習室から出て行った。
「ちょっと……クリスったら!! 先生にあんなこと言ったらダメでしょう? あの先生、傷ついてたわ」
「だいじょぶだよ、あれくらい」
マリアは厳しく叱ったつもりなのだが、涼しい顔で聞き流されてしまった。
「クリス……。あなた、本当は良い子なのに。わたしは他の人にも、あなたが良い子だってことを知ってほしいのに……」
「じゃあ、マリアもここの先生になればいいんだよ。そうしたら、僕はいつでも良い子でいられるよ」
そう、言われて。マリアは悲しそうに笑った。
「それは無理よ。わたしの本当の仕事は、ドクター・シュルツのために働くことだもの」
IV-11-01-MARIA《じぶん》は、ドクター・シュルツのためのロボットだ。シュルツが喜んでくれるなら、自分はどんな仕事でもしてみせる――マリアは、いつだってそう思っている。
だけれどシュルツはマリアを嫌って、何も仕事をさせてくれない。
嫌われていると分かっているから、彼女もまた、シュルツと距離を置くように心がけてきた。本当は悲しい。本当は、もっとシュルツの近くに行きたい。でも迷惑がられると分かっているから、この一か月の間シュルツに話しかけないように努力してきた。笑顔を取り繕っているものの、本当は、毎日胸が張り裂けそうなのだ。
「……マリア?」
クリスに呼ばれて、彼女は我に返った。
「ごめんなさい、ぼーっとしちゃった。えっと。じゃあ、今日はまず算数を勉強しましょう。この前は引き算のお話を少ししたから――その続きからね」
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