46.穏やかな時間《後編》
一時間ほど算数を続けて、ふたりは休憩を取ることにした。
手のひらサイズのロビィが、ノートの余白に鉛筆の芯をグリグリなすり付けているのを眺めながら、熱い紅茶を並んで飲む。湯気といっしょに緩やかな空気が流れていた。
「勉強、すごくわかりやすいよ。マリアって、すごいね。本当に何でもできるんだ」
「……そんなことないわ」
マリアの顔はまた、悲しげに笑った。
彼女がこういう表情をするのは、ドクター・シュルツのことを考えているときだ。だからクリスは、眉をしかめた。
「ねぇ、マリア。前から聞きたかったんだけどさ。あんなおっさんの、どこが好きなの?」
「へ!?」
唐突に切り出され、マリアはすっとんきょうな声を上げた。
「な。なにを言うのとつぜん!」
「好きなんでしょ? ドクター・シュルツが。で、どこが良いの? あれの」
侮蔑とも憎しみともつかない声で、クリスはシュルツを“あれ”呼ばわりした。
「どこって……」
はぐらかすこともできたはずだ。だけれどマリアは、馬鹿正直だ。
「ぜ……全部よ」
「たとえば?」
たとえば、って……
「えっと。たとえば……優しいところとか」
「優しい!? どこが」
「いろいろなこと、わたしに教えてくれたもの。本の読み方とか、人ごみの歩き方とか」
「そんなの誰でも教えられるよ!」
「でも……」
マリアは一生懸命、シュルツの美点を探そうとした。
「声も好きよ。姿勢も良いし。コーヒーの飲み方が綺麗だし。髪と目の色もすてき。顔も、とっても……」
わたし、何を言っているんだろう。――彼女自身も、わけが分からなくなっていた。
「と、ともかく……ぜんぶ好きなの!」
白い肌を唐辛子のように赤くして、マリアはそんなふうに締めくくった。
呆れた顔で、クリスは彼女を眺めている。
「それってさ。他に選べる男がいないから、好きなっちゃったんだよ。きっと」
マリアが予想もしていなかった言葉が、
「え?」
クリスはやけに達観した顔で、嘆かわしそうに首をふっている。
「マリアは男を見る目がないなぁ。あのベイカーって奴もダメだからね、あいつの家なんて絶対行っちゃダメだよ?」
目を白黒させてマリアが混乱していると、
「僕にしときなよ!」
間髪入れずにクリスは言った。
「あと五年くらいしたら、僕が一番いい男になるよ? それに僕、すっごい政治家とかになっちゃおうかと思ってるんだ。賢くなって、偉くなって、ロボットと人間をもっと仲良くさせるんだ。そしたらマリアも、きっと――」
明るい空気を引き裂いたのは、大音響のサイレンだった。
甲高い、耳をつんざく鋭い音響。マリアとクリスは驚きに身をこわばらせた。いや、このふたりだけではない。学舎の中にいた全員。いや、その外も。誰も彼もがサイレンを聞き、何が起きたか分からずに緊張していた。
《すべての市民は、活動を停止せよ。繰り返す。すべての市民は、活動を停止せよ》
サイレンが止み、代わりに高圧的な声が響いた。
《こちらは連邦刑事庁ロボット危機管理局である》
「……当局?」
マリアは、思わずつぶやいた。
《只今より、エルハイト市第五から第十一街区を閉鎖し、全市民の
「なに、これ……?」
「――ヒューマノイド狩りだ」
ぽかんとしているマリアとは対照的に、クリスは真っ青な顔をしていた。
「ヒューマノイド狩り?」
体中の血がすべて消え失せてしまったかのように青ざめて、クリスはガクガクふるえている。
マリアは窓から、中庭に誰かが入ってくるのを見た。黒いジャケットを着た見知らぬ男が一名と、その男の背後に連なる十数体の亜ヒト型ロボット。――あの亜ヒト型は知っている。当局捜査官のブラジウス・ベイカーがいつも従えているのと同じ、I-05-31-PRIMUSだ。
孤児院の院長と思しき人物が学舎から出て、男に向かって頭を下げた。
男の大きな声が、学習室の中まで届いた。
「すべての職員と児童のリストを提出しろ。施設内のすべての者を、十分以内にここに並ばせるんだ。一人ずつC/Fe検査を――」
クリスはマリアの手をつかみ、ものすごい勢いで走り出していた。
「ク……クリス!? ちょっ――」
「逃げなきゃ。逃げなきゃマリア!!」
追われておびえる小さなネズミ。マリアを引っ張るクリスの姿は、小さなネズミのようだった。
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