44.穏やかな時間《前編》
《1998年12月20日 9:00AM エルハイト市内 第六検死研究所》
オーディオから流れていたのは、シュルツの気に入りのラジオ番組だ。
このとき流れていた曲は、ショパンのワルツ第六番。『子犬のワルツ』の名にふさわしい軽快な音の運びは、自分のしっぽを追いかけてくるくる走り回る子犬の姿をシュルツに思い起こさせた。
そして目の前でせわしなく動き回っているIV-11-01-MARIAをちらりと見て、『まるで子犬のようだな』とシュルツは思った。
シュルツはコーヒーを飲みながら、大学の研究室に頼んで揃えた実験データを眺めていた。
「あの……ドクター・シュルツ!」
トートバッグに本を何冊も詰め込みながら、MARIAはそわそわした声でシュルツに呼びかけてきた。彼が反応しないでいると、
「ええっと……これから街に出たいんですけれど。良いですか?」
MARIAはめげずに、明るい声でそう言った。
「第五街区に行ってきます。夕方までには戻りますから……いいでしょう?」
シュルツの横顔を、MARIAは穴が開くほどじっと見つめ続けた。遠赤外線を放出しているのではないかと思うほどの熱視線に耐えかねて、シュルツは無表情のままうなずいていた。
「ありがとうございます、ドクター!」
白百合のような笑顔を咲かせ、MARIAはさっさと出かけてしまった。
にぎやかだったリビングが、途端に静けさを取り戻す。『子犬のワルツ』だけが豊かに鳴り響いていた。
「――――ふぅ」
飲み終わったコーヒーのカップを置きながら、シュルツは安堵の息を吐く。
IV-11-01-MARIAがトートバッグに入れていたのは、子ども向けの語学と算数の教本だった。図書館で借りてきたのだろう。これからMARIAは、あのクリスとかいう子供が暮らしている孤児院に行って、勉強を教えてやるつもりなのだ。
コーヒーカップを片付けて退出するSULLAの背中を眺めつつ、シュルツはどこか落ち着いた心持ちだった。
MARIAがクリスを研究所に連れ込んだのは、すでに一か月前のことだ。あの日以来、彼女はほぼ毎日のように外に出かけ、いろいろとクリスの世話を焼いてやっているらしい。最近彼女はシュルツの食事を作る代わりに、子ども向けの学習参考書を楽しそうに予習している。以前シュルツはMARIAに『君には検死官より
ロボットという名詞の語源はチェコ語の“強制労働;Robota”だが、ロボットというものは基本的に勤勉だ。料理という“労働”を禁止されたMARIAが子守りに心血を注ぐようになったのは、自然な流れだとシュルツは思った。
シュルツにとって、あの子供は非常に不愉快な存在だが……あの子供のおかげでMARIAの精神状態が安定しているというのは、疑いようもない事実だった。
今まで三度も繰り返されたMARIAの愛情-忘却のループは、以来一度も起こっていない。MARIAの奉仕対象が、自分からクリスへと移行したためだろう――シュルツは、そう理解している。この一か月、シュルツとMARIAはほとんど言葉を交わすことなく過ごしてきた。ひょっとしたら、これが理想的な距離感なのかもしれない。不用意に近づけば、また“愛”だの“恋”だの騒がれる。あんな泥沼状態は、二度とごめんだ。
それに、記憶の消去は二度と行わないと決めていた。
『あなたは。とても、卑怯なひと』
泣きながらそう訴えたMARIAの顔が一瞬シュルツの脳裏によぎり――
「ふん」
思わず頭を振っていた。
シュルツは、テーブルの上に並べた何種類もの資料の山に目を落とした。その中の一つ、実験データの束を手に取る。母校の研究室に依頼して集めさせたデータだ。
「……やはり、痕跡を残さずにロボットの忘却処置をこなすのは不可能か」
一か月前に頻発した“ヒューマノイド大量死事件”を解明するために、シュルツは個人的に、いくつかの調査を行っていた。もっとも有力だと思っていたのが『何者かが証拠隠滅のために記憶を消去した』という推測であり、様々な手法で忘却処置を実験させてみたのだが。
「不連続点を完璧に消すのは無理だな」
ロボットの頭脳に忘却措置を施すと、その記憶回路には必ず時系列的な不連続点が残る。いかなる方法で取り繕っても、ほころび程度の違和感は消せない……そしてどんなに些細な違和感であっても、見抜く技能を持っているのが検死官だ。
「……また、一から出直しだ」
少しふてくされたように、シュルツは頬杖をついていた。
この一か月間がとても穏やかだったのは、MARIAが安定していたからだけではない。頻発していたヒューマノイドの大量死――あの原因不明の異常死も、この一か月は一度も起きなかったからだ。当局は引き続き捜査を行っているが、依然として有力な情報は得られていないという。事件当初にはおもしろ半分に騒ぎ立てていたマスコミも、近頃はすっかり飽きてしまったらしい。
神から与えられたかのように、穏やかな時間が続いていた。
――だが、いつまた起こるか分からない。
そして次に起こるとき、その死がIV-11-01-MARIAを襲わないという保証はない。
IV-11-01-MARIAを守り抜くのは、恩師トマス・アドラー博士から与えられた使命だ。
――解明しなければ。あの異常死が、なぜ起きたのかを。
最近シュルツは、古今東西のロボットに関する都市伝説や、オカルトじみた仮説についても目を通し始めていた。もっとも、そのような非科学的な物に手がかりを求めるのは、非常に不本意であったが。
取り寄せたオカルト情報誌のページをぱらぱらとめくってみたものの、
「はぁ。バカげている」
すぐに嫌気がさしてしまった。
「……今回の事件。あの女なら、どうアプローチするだろうな」
遠い目をしてシュルツは半ば無意識に、そうつぶやいていた。
あの女。
大学院で同じ研究室に籍を置いていた。
名前はレナーテ・ファン・レント。
燃え盛るような赤髪の、炎のように気性の激しい女だった……。
レナーテは変わり者だった。誰も見向きもしないような些末な物に価値を見出し、誰もが嫌うような物こそをむしろ愛した。好奇心旺盛な子供のようでもあり、それでいて腹の底が見透かせない不可解な女だった。
博士課程を中退する直前に、彼女が熱中していたテーマ。それは、極東の国で起きたという『亜ヒト型ロボットの、原因不明の大量死』の事例だ。ロボットたちの死体は検死もされずに廃棄されていたらしく、信頼性の高い報告は何ひとつ残されていない。レナーテがその事例を見つけたのも、単なる偶然にすぎなかった。だが彼女は目を輝かせてこの事例に食らいつき、何週間も現地でフィールドワークをしてきたのだった。
ロボットが同時期に大量死を起こした事例が、実在するかもしれないのだ。
信憑性が極めて薄いとして、学生時代にはまともに取り合おうとしなかったのだが。現状では下手なオカルト雑誌を読み漁るよりも、レナーテの研究成果を閲覧したほうがよほど効率的だ。
そう思い、学生時代に彼女が残した研究成果の閲覧希望を、母校の研究室に申請していたのだが。
「レナーテ。……なんて度量が狭い女なんだ」
研究室の助教授から返ってきた手紙を読み返しながら、シュルツは眉間にしわを寄せていた。
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ロベルト・シュルツ博士
先日貴方がお求めになった、レナーテ・ファン・レントの研究報告の件でご連絡いたします。
~ ~ ~
誠にお恥ずかしいことではありますが、彼女の研究データの一切が、当研究室には保存されておりません。
当研究室では、卒業・退学を問わず、在籍する学生に研究データを開示するよう義務付けております。 しかしながら、退学時にファン・レント本人が提出を拒んで研究内容を焼却処分してしまったため、彼女のデータに関しては未回収となっておりました。
~ ~ ~
わたくし個人の記憶で恐縮ですが、レナーテ・ファン・レントは極東アジアで起きたとされる『亜ヒト型ロボットの同時死現象』について探求し、一つの仮説を立てておりました。彼女はその同時死現象に、“
しかし、彼女の仮説は非常識と言わざるを得ないものでした。
同時死現象には、中核となるロボットが存在する。その中核ロボットを中心として、周囲にいるロボットに“心臓死”が波及する――と言った内容であったように思います。なんら根拠もない荒唐無稽な仮説であったため、彼女の強情さには教授も手を焼いておりました。
当時の研究内容に関しては、ファン・レント本人にお問い合わせいただくのが最も正確であると思われます。
彼女の退学事由は、『生家が営むロボット整備工房の相続』でございました。ファン・レントの工房の所在地を記載いたします。
Handwerker Str.70
25 Nava
55828 Wasset
~ ~ ~
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「……データを焼き払っただと? 何を考えているんだ」
シュルツは、げんなりしながら首をふっていた。記載された住所を睨みつけ、嘆かわしげに息を吐く。
「周囲にいるロボットに死が波及する、か。……とても科学者の発想とは思えない。根拠もない癖にそういうことを堂々と言ってのけるのが、あの女の尋常でないところだな」
あきれ半分にそうつぶやいて、シュルツは今回エルハイト市と隣市で死んだヒューマノイドたちの、死亡地点の地図を広げて見下ろした。
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