39.クリスと“マリア”《後編》
《1998年11月14日 2:30PM エルハイト市内 ヴァセット州州立美術館》
「気づかれる前に、みんな返してあげられるといいわ。急ぎましょう」
マリアはそう言い、クリスの手を引っ張って美術館に入った。
か弱そうに見えるのに、彼女の力はけっこう強い。逃げるのはあきらめたものの、クリスは不満そうに言った。
「そんなの無理だよ。……十二個もあるんだから」
第一こんな人ごみの中で、持ち主を探せるわけがない。
「だいじょぶよ。いっしょに頑張りましょう? わたしも手伝ってあげるから」
マリアはひとつひとつの財布を開いて、免許証や家族写真など、持ち主の顔を特定できそうなものを探していった。十二個の財布すべての顔写真を確認すると、
「うん。だいじょうぶ。行きましょう!」
自信満々に歩き始めた。
最初に持ち主を見つけ出したのは、探し始めた五分後だった。
「あのお爺さんだわ」
「え?」
クリスはマリアに渡された財布を開いて顔写真を見た。……たしかに、あそこで絵を眺めている老人と、写真の顔は同じだった。
「ねぇ、クリス。あのお爺さんのカバンの中に、そっと戻してあげられる?」
マリアはちょっと変わっている。おっとりしてるクセに妙な頑固さみたいなものがあって、いつの間にか相手を自分のペースに引っ張り込んでしまうのだ。クリスも彼女にすっかり飲まれ、うなずいていた。
クリスは、自然な動きで老人に近寄った。
カバンのチャックを開けて財布を抜き取り、またチャックを閉める――そんな芸当さえ朝飯前のクリスにとって、財布を持ち主に返すのは難しくない。
「上手ね。クリス。次も急ぎましょう」
人ごみの中をなめらかに歩き、マリアが持ち主を見つけ出す。そしてクリスが財布を返す。そんな繰り返しが十一回続いた。いよいよ最後の一個となったそのとき。
「畜生!! 俺の財布がねぇ!」
出口付近の広場で、男の怒鳴り声が響いた。
クリスはびくっと身をこわばらせ、反対方向に逃げ出そうとしたのだが、
「だめ」
またもや、やんわりとマリアに止められてしまう。彼女はクリスの手を引いて、男に近づいていった。
「盗まれた! どいつだ、くそぉ」
強面の中年男が、雷のように怒声を鳴り響かせている。財布の中の顔写真と、同じ顔だった。
「む、むりだよ。やだよ、逃げ……」
「怖い? だったらもう、悪いことしちゃだめ。ね?」
マリアはクリスのくちびるにそっと指を当てた。いたずらっ子を諌めるような顔でやわらかく睨んでから、
「ここで待ってて」
クリスを残し、財布を持って男の前まで歩いて行った。
「これ、あなたのお財布ですか? 向こうに落ちていたんですけれど」
「あ?」
両手で黒い財布を大事そうに持って、マリアは男に差し出した。
「落ちてただと? そんな訳があるか!」
マリアの手から、男はひったくるようにして財布を取った。
警察を呼んでやるぞと言わんばかりの剣幕で彼女を睨み、疑うように財布を開き――
だが。何もなくなってはいない。
男は、周囲の目線が気になり始めたようだった。
「……落ちてたのか?」
「えぇ」
マリアは、どこまでも善良そうに笑っている。
「ああ、ありがとう……」
その笑顔に飲まれ、男はそそくさと立ち去ってしまった。
出口から去る男の背中を見送ってから、彼女はクリスをふり返った。
クリスは足に根が張ったようになって、その場に立ち尽くしていた。逃げることもできたはずなのだが。ふしぎと、彼女から逃げたいとは思わなかった。
「お待たせ」
彼女はクリスに歩み寄り、腰をかがめて、そっとクリスを覗き込んだ。彼女の笑顔は眩しすぎて、クリスには見つめ返すことができなかった。
「…………」
クリスが沈黙していると。
「あなた、お腹が減った顔をしてるわ」
「へ?」
クリスの手をきゅっと握って、マリアは出口へ歩き始めていた。
「え。ちょ、ちょっと待……」
「いっしょに、お茶でもしましょう?」
有無を言わさぬ笑顔に飲まれ。クリスは彼女に、喫茶店へと連れていかれた。
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