38.クリスと“マリア”《前編》

《1998年11月14日 2:15PM エルハイト市内 ヴァセット州州立美術館》


 クリス・メグレーには、生まれた時から親がない。


 十年前の生誕祭クリスマスの日に、教会の前に捨てられていた赤ん坊だった。だからChris《クリス》だ。赤ん坊を保護した施設のメグレー院長が、そう名付けた。


 クリスは親の愛を知らない。いや、正確にいうならば、“生みの親”の愛を知らない。

 “育ての親”の愛情ならば知っていた。五歳のときに孤児院から逃げ出したクリスを、三年間かくまって大事に育ててくれたあの“夫婦”。クリスにとっては、あの二人こそが本当の親だ。

 だが。

 クリスがいくら主張しても、誰一人まじめに聞いてはくれなかった。聞くとクリスを馬鹿にするか、憐れみの目を向けるだけだ。だからクリスは、他人に心を開かない。

 だから、クリスは。誰にも告げず、今日も一人で“仕事”をしていた。


 ――今日は楽勝だ! やっぱ、美術館は狙い目だな。


 琥珀色の大きな瞳をずる賢そうに閃かせ、今日のクリスは上機嫌だった。ジャケットの中は、盗んだ財布でいっぱいだ。獲物の数は十三個、芸術品ガラクタに見とれるマヌケな大人から、かっぱらってきた物だった。入館無料の十歳児クリスにとって、この美術館は恰好の狩場となっていた。


 ――よし。今日はもう、こんなトコだろ。


 人ごみを縫うように進むクリスの身のこなしは、まるで樹上のリスのようだ。なめらかな足運びで、美術館の出口を目指す。

 出口付近は、人がまばらだ。さりげなく抜け出てしまおう。

 クリスは涼しい顔でゲートを通り抜けようとした。だが――


「お願い。待って」


 透き通るような声で女に呼び止められ、そっと手首を握られていた。

「――っ!?」

 クリスは思わず目をむいた。女がまるで、先回りしてクリスを待ちかまえていたかのようだったからだ。


「な……なんだよ、お前!」


 子犬が威嚇するように、クリスは精いっぱいの凄味をきかせて女を睨んだ。女は青い瞳に悲しそうな色を浮かべて、静かにクリスを見つめている。

 月のように淡い色合いの、白金髪プラチナブロンドの美人だった。たぶん二十歳くらいだろう。


「放せよ!」


 クリスは力任せに手を振り回し、女の細腕を振りほどこうとした。しかし振りほどけなかった。女はクリスに怪我をさせないように手加減しながら、やんわりと手首を握り続けている。


「ごめんなさい……それ、とても大切な物なの。返してね?」


 女は柔らかい手つきで、クリスのジャケットの内ポケットに手を差し入れた。手触りだけで自分の財布を探し当て、内ポケットからすっと引き抜く。二秒もかからず取り返されて、クリスには抵抗する暇もなかった。

 女は不安そうな顔で、二つ折りの財布をそっと開いた。革と革の間に挟まっていた銀色の小さいボタンを見つけると、

「あぁ、良かった……」

 不安げだったその顔が、花咲くようにほほえんでいく。その笑顔は、まるで白百合のようだった。

 その美しさに、クリスは思わず見とれてしまったのだが――


「あなた、お金がないの? もし良かったら、少しだけれど……どうぞ?」

 にっこり笑って、女は財布を丸ごとクリスの手のひらに乗せた。銀ボタンだけを大事そうに握りしめ、幸せそうに笑っている……


「バカにするな!」


 クリスはカッとして、大声をあげていた。周囲の目がこちらに注がれているのも忘れて、子犬のようにわめきたてる。


「ぼくは、お前みたいのが一番きらいだ。良い人ぶりやがって!」 

 女は、何が起きたか分からないと言った顔でぽかんとしていた。その平和ボケした表情を見ていると、ますます腹が立ってくる。

 クリスは女の財布を床に叩きつけ、ゲートを抜けて走り去った。

「あっ……」

 驚いたような、女の声。床に散らばるコインの音。ふり返らない。クリスは脱兎のように駆けだしていた。

 ……しかし。


「おいおい。またテメェかよ、このクソガキ」


 頭の上から男の声が降ってきた。えり首をぐいっと掴まれ、引っ張り上げられる。目に映る景色が一気に上昇した。

「ぅわっ!!」

 クリスのえり首をつかんでいたのは、黒人の大男だった。

 その大男の後ろには、鈍く光る金属製の亜ヒト型ロボットが立っていた。その亜ヒト型は、まるで奴隷みたいにうやうやしく控えていた。

 亜ヒト型をしたがえた、黒人の大男……。この男の名前を、クリスは知っている。ロボット危機管理局の、ブラジウス・ベイカーとかいう奴だ。


 ――くそっ、最悪だ。


 ベイカーは小馬鹿にしたような顔で、クリスの顔を覗き込んでいた。

「懲りねぇガキだなぁ。……で? 今日はいくつ狩ったんだ?」

「ちっくしょう! 放せ、このデカブツ!」


 じたばた暴れて、クリスは相手の顔にツバを吐きかけた。だが相手はツバを容易くかわして、クリスの体を左右に大きく揺らした。

「ゎわわわ!」

 はずみで、クリスのジャケットから盗んだ財布がバサバサと落ちてくる。


「……なンだよ、たったの十二個か。中途半端なガキだな」

 つまらなそうに、ベイカーが言った。面倒くさそうにため息をついて、

「ったく。これで何度目だ? そろそろ院長先生も愛想を尽かすぜ? お前みたいなガキは、いっぺん少年院に突っ込まれたほうが良いんだ。いい刺激になるぜ? 俺もむかし世話んなったけどよ」

「うるさいっ、お前なんかと一緒にすんな! 放せよ、ばかっ」

 あざけるように笑いながら、彼はクリスにこう言った。


「院長先生に訊いたぜ? お前が盗んだ金で何を買ってるか。……ははは、馬鹿なガキだなぁ。まぁ確かに、お前の生い立ちは不憫だと思うけどよ」


 言われた瞬間。クリスの顔色が変わった。


「五歳のときに施設から逃げて、ヒューマノイドの男と女に拾われたんだって? それから三年間も、そいつらと“家族ごっこ”してたって言うじゃねぇか。……で、以来お前は人形偏愛症ロボットずきになっちまった、と」


 ベイカーの腕に吊るされて、宙ぶらりんで暴れていたクリスは。いつしか動きを止めていた。小さく肩をふるわせて、拳を握りしめている。


「いい加減、ロボットに依存するのはやめとけよ。ヒューマノイドも含めてロボットは全部、ただの道具だ。奴らは、人間の要求ニーズを満たすような行動を選ぶ――だからお前の“要求”どおり、“偽の家族”を演じてみせたんだ」


 ベイカーはさらに、言葉を継いだ。


「いいか? クリス。あの鉄クズどもは、本当は何も感じない。人間との共同作業をラクにするために、感情を演じているんだ」


 そう断言して、彼は背後で控えていた亜ヒト型ロボットに問いかけた。

「……だろ? I-05-31-PRIMUSプライマス?」

『ええ。おっしゃる通りです、パートナー・ブラジウス』

 PRIMUSと呼ばれた亜ヒト型は、金属の頭を縦に振った。


「違う! そのロボットだって、お前に命令されたから何も感じないフリをしてるだけなんだ。なぁ、そうだろ!?」

『…………』

 PRIMUSは、クリスの声には答えなかった。それを見て、ベイカーは満足そうに笑う。


「クリス。お前は、親に捨てられた寂しさをまぎらわすために鉄クズに甘えるだけだ」

「違う! 違う違う違う!! クズはお前らだ、人殺しのクソやろう!」

 小さな体で大きな声を張り上げて、クリスはベイカーの腹を蹴り飛ばした。けれどもベイカーは、びくともしない。

「パパもママも、ヒューマノイド狩りで当局おまえらに殺されたんだ。この悪魔!」

「殺すと壊すの違いも分からねぇのか? こりゃ重症だな。……おら、行くぞ」

 いくら言っても、お前にゃ無駄だな――そんなふうに呟きながら、ベイカーはクリスを吊り下げたまま歩き出した。

「放せ! 放せよ、人殺し!」

 暴れても無駄だった。ベイカーは周囲の野次馬に見せびらかすように、宙づりのクリスを連れていく――

 そのとき。


「……待ってください」


 澄き通るような、女の声が割り込んできた。

 ベイカーの足が、ぴたりと止まる。


「ベイカーさん。……その子、とても痛そうです。放してあげてくれませんか?」

 さっきクリスに財布を渡そうとした、あの女だった。女はベイカーの太い腕にそっと触れ、まっすぐにベイカーを見つめた。

 その瞬間、ベイカーの顔がパッと輝いた。


「よぉ! あんた、マリアじゃないか!」

 さっきまでとは打って変わった明るい声だ。

「こんなところで出会うなんて、神のおぼしめしかな?」

 マリアと呼ばれた女は、一生懸命な顔をしていた。

「その子は、悪い子ではないと思います。だって……わたしのお金を返してくれました」

 そう言うと、マリアはクリスの頬に触れ、やわらかく笑いかけた。

「なにか、訳があったんでしょう?」

 優しい笑みに照らされて、クリスは後ろめたさで顔をそむけた。

「ベイカーさん。お願いです。放してあげてください」

 しばらくの間、ベイカーは見惚れるように彼女に見入っていた。――そして、

「……いいぜ? こんなガキ、気まぐれで捕まえただけだからな。美術館ここに来たのも別件さ。俺の本業は鉄クズの暴走を取り締まることだ」

 マリアが胸をなでおろしたそのとき。ベイカーはニヤリと笑った。


「あんたが代わりに俺に捕まってくれるんなら。こんなガキ、見逃してやるよ」

「え?」

 興味が失せたと言わんばかりに、ベイカーはクリスを手放す。どすんという音とともに、クリスは尻餅をついていた。

 さっきまでクリスを掴んでいたベイカーの腕が、今度はマリアの腰に回った。


「俺はあんたが気に入った。俺ん家に来い。俺のベッドで、朝まで踊らせてやるよ」

 からかうような口ぶりだった。

 見るからに育ちの良さそうなマリアは、そんなふうに誘われたらどんな顔をするだろうか――ベイカーは、人の悪い笑みを浮かべて、彼女を眺めて楽しんでいた。

 ところが。

「わかりました。あなたのお家はどこですか?」


 ベイカーもクリスも、目を丸くした。


「あなたは優しい人ですね。この子を許してくれて、わたし、嬉しいです!」

 幸せそうに笑いながら、マリアはベイカーを見上げている。……かと思ったら、今度は困った顔になって、なにやら考え込み始めた。

「でも……わたし、ダンスなんてしたことありません。練習してきます、どんなダンスが良いですか?」


 ベイカーは、呆けて口を開けていた。

「――――ぶっ」

 次の瞬間、吹き出した。

「ははははは! あんたホントに良いよ。惚れちまった」

 愉快そうに笑いながら、ベイカーは彼女の頭をぽん、と撫でた。


「片手間に誘うなんて失礼だな、悪かったよ。今度は本気で口説きに行くから」

 言いながら、踵を返して歩き出す。


「改めて誘うことにするよ、じゃあな、マリア」

 ほら、鉄クズ、さっさと付いて来い――そう言って、ベイカーは補佐用ロボットPRIMUSプライマスを罵りながら去っていった。



 何が何だかわからないまま、首を傾げているマリアと。

 いつの間にやら蚊帳の外に捨て置かれていたクリス。

 残ったふたりは、しばし無言で立ち尽くしていたが。


「…………ちくしょう! あの野郎!!」


 足元に落ちた十二個の財布を睨みつけ、クリスは地団駄を踏んだ。

 気まぐれで捕まえられ。育ての親を侮辱され。クリスは自分がみじめになった。盗んだ財布を、八つ当たりで踏みつけようとする。

「そんなこと、しちゃダメ」

 クリスの足が財布を踏みつける寸前に、マリアは横から手を伸ばして財布を拾い上げていた。

 おっとりした顔をしているのに、彼女の動きには無駄がない……クリスが驚いて目を丸くしていると、

「これ、返しに行きましょ? 失くした人は、きっと困ってしまうから」

「えっ。ちょ、……」


 彼女はクリスの手をつないで、美術館の入り口へと引っ張っていった。


「気づかれる前に、みんな返してあげられるといいわ。急ぎましょう」


 有無を言わさぬ彼女の笑顔に、クリスはすっかり飲まれてしまった。

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