12.学習

《1998年10月25日 9:30AM エルハイト市内 第六検死研究所》


 世の人々と同じように、検死官ロベルト・シュルツも日曜日には休息をとる。勤勉かつ他人嫌いな彼であっても、その点については他人と変わらない。


 今日がその日曜日だ。

 新聞や読みきれずに溜めてあった工学論文を、まとめて読める貴重なひととき。ロベルト・シュルツは、リビングでくつろぎながら活字に目を通していた。

 

「君を―― 忘れじ。―― 愛しき君を――」

 

 窓を磨きながら鼻歌を歌っているIV-11-01-MARIAの歌声がふと気になって、シュルツは無言で彼女を睨んだ。

 MARIAはシュルツの視線に気づかず、相変わらず上機嫌で歌い続けている。


「――その幾千の 眠りを越えて。我は忘れじ、愛しき君を」


 カナリアのように澄んだ、美しいソプラノ。だがシュルツは、歌が聞きたい気分でもない。もし聞くのならラジオでいつも流しているクラシック番組のほうが、よほど耳に馴染むのだが。

 シュルツの口から嫌味がこぼれた。


「……いつもいつも、君はその歌ばかり歌っているな。ずいぶんと懐古趣味な歌だが、君はそれしか知らないのか?」

「え? あら。わたし、また歌ってました?」


 無意識に歌っていました、と言ってIV-11-01-MARIAは照れ笑いをした。

 料理をしながら。掃除をしながら。彼女はよくその歌を口ずさむ。

 初めて出会ったあのときも、同じ歌を歌っていた。


 シュルツは新聞に目を戻しながら、皮肉を吐いた。

「料理に掃除に子守唄か。君は検死官わたしではなく、子守ベビーシッターとでも暮らすほうが適しているな」

 MARIAはシュルツの言葉を皮肉と気づかず、


「いいえ、ドクター。わたしはあなたと暮らします。それが父の遺言ですから」


 晴れやかな顔をして、窓の向こうの青空を覗きながらそう答えた。シュルツは無言で肩をすくめる。

 IV-11-01-MARIAがこの第六検死研究所に来てからもうじき一ヶ月になる。彼女は毎日、料理や掃除ばかりを喜んでやっている。文句の一つも言わず、それはそれは楽しそうに。――ロボットなのだから、文句を言わないのは当然なのだが。


「ドクター、コーヒーを淹れますね?」


 窓みがきを終えたIV-11-01-MARIAが、ふり返りながらそう言った。


 返事もせず無表情に新聞を読み続けているシュルツを見て、MARIAはニコニコうなずいた。シュルツの沈黙が肯定を意味するのだということを、彼女はすでに理解している。

 掃除道具を片付けて、彼女はエプロンを締めてコーヒーミルを取り出した。


 ――本当に、人間の家政婦がいるのと何ら変わらない。


 ここ最近、給仕ロボットIII-08-29-SULLAスラは地下倉庫から出てこない。MARIAに仕事を明け渡すため、自分は倉庫で控えているのだ。実は先日、MARIAが『あなたにはお休みしていてほしいの。私に仕事をさせてね?』と廊下でIII-08-29-SULLAに“命令”している現場をシュルツは見てしまった。その日以来、III-08-29-SULLAは倉庫で眠り続けている。MARIAはシュルツに内緒でやってのけたつもりらしいが、シュルツは全部知っていた。MARIAから家事を取り上げると、『何か仕事をさせてください!』とせがまれて鬱陶しいから、知らないふりをしているだけだ。

 いつも通りの比率で豆を混ぜながら、MARIAは唐突に言った。


「ドクター。あの歌は子守唄じゃありませんよ?」


 シュルツが首を傾げると、

「君を――忘れじ――愛しき君を。これは、映画キネマの挿入歌なんです」

「映画?」

「戦前の映画です。ご存じですか? 『君を忘れじ』というタイトルなんですけど」

 きらきらと顔を輝かせながらMARIAは続けた。

「父がこの映画をとても気に入っていました。父とわたしの住んでいたクレハの街が舞台なんです。お話も映像も、とてもすてきで……」


「ロボットのくせに、君のスピーチは冗長だな」


 うんざりしたように、シュルツは話を遮った。

「まったく興味が湧かないのだが――」

「ちょっと見てみたら、すぐに興味が湧きますよ? 本当にすてきなんですから。わたしも、あの物語が大好きなんです」


 『すてき』で『大好き』。自信たっぷりにそう言い切ったMARIAを、シュルツは黙って眺めていた。IV-11-01-MARIAはしばしば、今のように人間的嗜好を口にすることがある。

 ロボットには嗜好など存在しない。彼女の嗜好は、死んだ所有者ちちおやの模倣に過ぎないのだ。だがそうと知っているシュルツでさえも、彼女自身がその映画を気に入っているのかと錯覚しそうになる。本当に、見事な模倣だ。


 IV-11-01-MARIAは、あの天才ロボット工学者トマス・アドラー博士が自ら手掛けたヒューマノイドだ。その真価は計り知れない。家事ばかりをさせているのは惜しいほどの能力を、実際には持っていることだろう。

 挽いたばかりのコーヒーの香りをかいで嬉しそうな顔をしているMARIAを眺めながら、シュルツはトマス・アドラー博士の言葉を思い出していた。



『君の検死しごとを、IV-11-01-MARIAに教えてやってはもらえないか?』



『すぐに学ばせてやってくれとは言わない。彼女の有能さを確信し、頼もしい助手になり得ると判断した時点で徐々に教えてやってほしい』



 普通ならば、絶対に受け入れられない依頼だ。ロボット検死は、検死官の免許を有する人間のみが行うものだ。無免許の人間に手伝わせるのも、ロボットを使うのも違法である。


 だが……ヒューマノイドであるIV-11-01-MARIAをかくまっている時点で、自分はすでに法を犯しているのだ。極東の国には『毒を食らわば皿まで』ということわざがあるらしいが、まさにそのような心持ちだった。


 シュルツは新聞に目を落とした。

 毎日どこかで、ロボットが人間に“殺される”事件が起きている。IV-11-01-MARIAにも、時期を見て外の世界を教えてなければならないだろう。ヒューマノイドが素性を隠して生きるには、外の世界は厳しすぎる。もしも恩師の言う通り、検死が役に立つのなら――


 そんなことを思いながら、シュルツはMARIAに呼びかけた。

「……IV-11-01」

「はい?」


「ロボット工学三原則を暗唱してみせろ」


 彼女に検死をさせるか否か。実技研修前の口頭試問のように、シュルツは彼女にいくつかロボット工学の基礎を答えさせることにした。

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