4.久しき声
《1998年9月30日 6:00PM エルハイト市外 ヒルメリア墓碑公園》
「今からわたしは、あなたの物です」
聖母の美貌に子供のような笑顔を浮かべ。幸せを噛みしめるようにして、女は声を震わせた。
しかしロベルト・シュルツには、自分の身に何が起きたかまったく理解できなかった。一時間前に届いたばかりの恩師の手紙に従って、ここへ来たのだ。なのに今は、見ず知らずの女に両手を握られて、訳の分からないことを言われている……。
硬い表情のまま、シュルツは女を凝視した。
女を睨みつけたまま、シュルツは握られた手をほどこうとした。
「……なんなんだ、君は?」
だが思いのほか、女の力は強かった。ほっそりとした外見にそぐわず、細い指には大の男が苦労するほどの力がこもっている。シュルツは顔色を変えないようにしながら、やや大ぶりな動きでようやく女の手を振りほどいた。
「わたしは、マリア・エレットです」
彼女に握られていた両手には、くっきりと指の跡が残っていた。
「名など聞いていない。君は何者なのかと聞いている」
ますます邪慳な顔をして、シュルツは女に問いかける。すると女は、ふしぎそうに首を傾げた。
「“何者”――というのは、氏名のことではないのですか? 困りました、それではどのようにお答えしたらよいでしょう」
傾げた首をそのままに、女は笑ってこう言った。
「では何なりとお尋ねください、ドクター。あなたのお求めに、わたしは何でも応えます」
ニコニコしながら、シュルツの質問を待っている。……奇妙な女だ。美しいからこそ、かえって不気味な印象だった。
「……私を待っていた、というのはどういうことだ?」
「あなたを待つよう父に言われたのです」
「父? 誰だ?」
「アドルフ・エレットです」
聞いたこともない名前だった。
シュルツが眉をひそめて黙っていると、カナリアのように澄んだ声で女は続けた。
「あなたは、ロボット検死解剖官のロベルト・シュルツ博士でしょう? わたしはマリア・エレットです。父アドルフ・エレットの遺言により、今日からあなたと一緒に暮らすことになりました。よろしくお願いします」
頬を淡く染め、ニコニコしながらマリアはシュルツを見つめていた。眩しすぎる彼女の視線から不愉快そうに顔を背け、シュルツは疎ましげな声を出した。
「アドルフ・エレットだと……? そんな名前の人物は知らんな」
だが、マリアは笑みを失わない。
「わたしの父の情報をお求めですか? 父はクレハ市バートヴァイス地区に十九代続いた子爵家、エレット家の当主でした。四十六歳から十年間、クレハ市の市長を務めた経験があります。先の大戦中は、第二海兵歩兵連隊第三中隊大尉として――」
「何を言っているんだ君は?」
訳の分からない情報が、バラ色の唇からなめらかに滑り出していく。
「そんなことは聞いていないだろう!」
いらだちながら遮ると、マリア・エレットは再びふしぎそうに首をかしげた。
――何なんだ、この女は?
頭がおかしいのか? 人間的な温もりのある美貌から、意味のない情報が次々と飛び出してくる。まるで、稼働したてのロボットのような……
シュルツは、愕然とした。
「待て。君は――まさか、ヒューマノイドなのか?」
そう問われると。今までニコニコしていた彼女は、初めて顔を曇らせた。
「どうしましょう……他人に明かしてはいけないと父に言われていたのですけれど。……でもあなただけは特別ですね」
ためらったあと、シュルツに向き直って再びにっこり笑った。
「はい、ドクター・シュルツ。わたしは、ヒューマノイドです」
シュルツの瞳は驚愕に染まった。言動はあきらかに不自然だが、マリア・エレットの外見は、どこからどう見ても人間だったからだ。恩師トマス・アドラーのもとで十年近くロボットに関わり続けていたため、どんなに精巧なヒューマノイドでも一目で見抜く自信があったのだが――
だが。ヒューマノイドが、どうして自分を待っていた?
そもそもヒューマノイドは、存在そのものが違法なのだ。こうして街なかに存在すること自体、許されていない。
「何の冗談だ、これは?」
「いいえ、ドクター。わたしは冗談なんて申しません」
氷のような瞳で鋭く睨まれても、彼女はやはり笑っている。だがシュルツのコートのポケットから覗いていた封筒に気がついて、
「あら、いけない! わたし、うっかりしていました」
彼女は足元に置いていた
「父からこれを渡されていたのです。あなたにお渡しするように、と」
旅行鞄から小型テレビのような機器を取り出し、マリアはシュルツに差し出した。
「どうぞお受け取りください、ドクター」
「なんの受信機だ……」
シュルツが警戒していつまでも受け取らないでいると、マリアが自分で機器を起動して彼の顔の前に掲げた。
「心配いりません。トマス・アドラー博士という方が、あなたを待っているはずです」
――なんだと?
画面に映り始めたのは、独房のように小さい部屋だった。薄暗い部屋の中に、簡素なベッドとデスクがあるだけ。部屋には誰もいない。
「静止画か?」
見たことのない部屋の画像を、ロベルト・シュルツは不審げに眺めた。そのとき。
『……ロベルト?』
かすれた声に名を呼ばれ、シュルツは瞳を見開いた。
定点カメラのように止まっていた画像が、ゆっくりと動き出す。カメラを持ちながら、おぼつかない動きで歩き出したかのようだ。足を引きずって歩いているような、ぎこちない上下の動き……
画像に老人の手が映った。その手はデスクの引き出しから鏡を取り出し、そして。
「トマス先生!?」
シュルツが思わず叫んでいたのは、鏡に映り込んだ人物が、誰より大事なあの恩師であったからだ。
『やぁ――ロベルト。君の声を聞くのは久しぶりだ』
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