3.蝶舞う園で 君を待つ

 ロベルト・シュルツは研究所から滑り出し、車のアクセルを踏み込んだ。左右に過ぎ去る景色も速く、最短距離で目的地を目指す。


 一般道から高速道路アウトバーンへ。早鐘を打つ心臓は、車速とともに速くなる。

 手紙の文面は、非常に簡素なものだった。ハンドルを切りながら、シュルツはその文面を思い返した。


『ロベルト。――罪深き私を、どうか許してほしい』


 文面を読む恩師の声が、脳の奥から聞こえる気がした。


『君に多大な迷惑をかけると知りながら、このような手紙を書かせてもらった』

 追い越された車はまるで静物のように、背後に取り残されていく。

『この手紙を受け取ったら、すぐにヒルメリア墓碑公園に向かってほしい』


 ――墓碑公園? なぜ、そんなところに?


 市外にあるヒルメリア墓碑公園までは、高速道路を利用すれば三十分ほどの距離だ。だが、すでに時刻は午後の五時。人々の帰宅時刻に差しかかり、道路が渋滞し始めていた。

「……ちッ」

 いらだち紛れに、舌打ちをする。

 夕暮れに染まり始めた車の群れ。シュルツは合間を縫うように、車線を変えて走り続けた。


『墓碑公園の中央……“あの事件”の爆心地点に建つ慰霊碑のもとへ。可能な限り、早く来てもらえないだろうか?』


 温もりと、少し癖のあるあの筆致。手紙の文字は、まぎれもなく恩師トマス・アドラー博士のものだった。

『君にしか、頼めないことがある』


 ――私にしか頼めないこと?


 シュルツには、心当たりなどなかった。自分が恩師の役に立ったことなど、今まで一度でもあっただろうか?


 恩師が当局に召喚されたのは、三年前のことだ。大学院の博士課程を修了したばかりだったシュルツは、連行されてゆく恩師の背中を、ただ見送ることしかできなかった。

『そんな顔をしないでおくれ、ロベルト。これは人間社会の総意が下した結論だ。私はそれに、従うよ』

 歯噛みしていたシュルツに向けて、恩師は悲しく笑って言った。


『……だが私が成し得なかった夢を、いつか君が果たしてくれたら嬉しい』


 恩師の夢。それは、人間とロボットとの共存だ。

 ロベルト・シュルツには、うなずくことなど出来なかった。恩師はロボットを愛しているが、シュルツはそうではないからだ。顔を曇らせた彼を見て、恩師は悲しく首を振った。


『いや……すまなかった。無理強いは、出来ないな』


 杖を突く、老いた足取り。痩せた背中が遠のいていく。

『ありがとう、ロベルト。君と過ごせた十年間は、とても幸せだった』

 恩師が最後に残した声を、シュルツは今でも忘れない。


   ・・・


 シュルツがヒルメリア墓碑公園に着いたときには、夕日も落ちかけ辺りは薄闇に濡れはじめていた。

 車を降りるや走り出す。慰霊碑の立つ、丘の上まで。


 ヒューマノイドによる自爆事件――“C/Fe事件”は、この場所で起きた。広大な跡地が、そっくりそのまま一つの公園として残されているのだ。

 犠牲者の墓は丘の上に集められ、慰霊碑はその頂上に立っている。シュルツは、ゆるい傾斜を駆け上っていった。十字架の群れを視界の端に流しながら、頂上を目指して急ぐ。


 整然と区画された墓地には他に人もなく、ただただ広くて静かだった。周囲の景色がひっそりと、夜の闇へと濡れていく。


 誰一人いない孤独な墓地を、ひたすら走る。膝元に茂るバラの垣根を走り抜けると、夜だというのに立羽蝶がひらひらと舞いだした。


 息を上がらせ、額に汗をにじませ。ようやく慰霊碑の場所へたどりつく。敷石で舗装された五十メートル四方の空間の、中心に立つ白亜の塔が慰霊碑だ。

 シュルツは足を止めた。

 首を傾げて眉を寄せる。


 ――誰だ?


 慰霊碑のもとに、誰かが立っている。

 街灯の明かりはまだついていないが、石碑に背を預けて立つ若い女の後ろ姿が、宵闇の中に見えていた。


「君を…… 忘れじ。……愛しき君を」


 女はささやくようにして、なにかの歌を口ずさんでいた。

 クラシックな風合いのブラウスとスカートに包まれた、ほっそりとした後ろ姿。月影のような色をした淡い金髪は、腰の長さまであった。足元に置いてあるのは、小さめの旅行鞄トランクだ。

「……いずくにか おわする君を ……我は、忘れじ」

 女が少しうつむいて、横顔が見えた――とても不安そうな顔をしている。年齢は、おそらく二十歳前後だろう。

 舞い遊ぶ蝶が一頭、女の手元に近づいた。女がそっと手を差し伸べると、白い手のひらの上に蝶がとまった。

 さみしげだった表情が、かすかに微笑むのが見えた。憂えた美貌を見た瞬間、シュルツはダ・ヴィンチの描く聖母の顔を思い起こしていた。


「……愛しき 君の その温もりを」


 女は、両手をゆっくりと泳がせて蝶たちと戯れ始める。だがすぐに手を止め、ぎゅっと自らを抱きしめた。その姿は、凍てつく冬に耐える蝶のさなぎのようだった。

 何者とも知れないその女を、シュルツは睨むように凝視していた。夜の闇は、ますます深く。かすかに残っていた夕暮れが、完全に闇に飲み込まれた――周囲の街灯が一斉に灯ったのは、そのときだった。


 暗がりに沈む慰霊碑を浮かび上がらせるかのように、金色に輝く無数の灯。金の光に導かれ、女はようやくシュルツの視線に気づいた。


「!」


 月影色の金髪が、明かりに照らされさらりと流れた。時間の流れが止まったように、女はふり向いたまま静止している。

 他に人のない丘の上。差し向かいあう二人の間に、どれほどの時間が流れただろう。

「――あなたは」

 バラの花弁に似たくちびるを、女は開いてつぶやいた。


「あなたが。ロベルト・シュルツ博士ですね?」


 聖母のような静的な気配をまとっていたその女は、ふいに幼子おさなごのように笑った。親をようやく見つけて安心しきった迷子のように、泣き出しそうな笑顔でシュルツに駆け寄り抱きついた。


 何が起きたか、シュルツには理解できなかった。

「会いたかった……! ずっと、ずっと、わたしはあなたに会いたかったです。ドクター・シュルツ!」

 先ほどまでの静かな気配はどこへやら。春陽のようにみずみずしい笑みを浮かべて、女はシュルツを見つめていた。シュルツの背中に回していた両腕をゆるめ、今度は彼の両手をきつく握りしめる。


 シュルツの瞳をまっすぐ見つめ、女は瞬きもせずに言った。

「わたし――あなたのお役に立てるよう、精いっぱい頑張りますから……」

 表情も硬く沈黙しているシュルツとは、女の様子は対照的だ。


「今からわたしは、あなたの物です」


 聖母の美貌に子供のような幼い笑顔を浮かべながら。

 幸せを噛みしめるようにして、女は声をふるわせていた――

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