第10話


 コンロの前にいる。

 この場所をたとえるなら航空機のコックピットだ。

 様々な計器のかわりに、色々な調味料や食材の入った小ボウルや寸胴が立ち並ぶ。

 調理を最小の動きです早く仕上がるようにと考えられた配置だ。

 主だった物は、塩、酢、砂糖、醤油、旨味調味料、トウバンジャン、テンメンジャン、水溶き片栗粉などなど。

 そして握るは操縦桿ではなく北京鍋の取っ手。

 料理の飛び出す魔法の取っ手だ。

 その下にはゴツイ業務用のガスコンロがある。

 この店で使っているのは、一般的な中華用外管式のガスコンロだ。

 調理台の外側をガス管が這うように伸び、先端で三っつに分かれたガス管が二台のバーナーにそれぞれつながっている。

 太い二本の管が同心円バーナー内・外のガス管で、細いのが種火用のガス管だ。

 今は準備中なので種火は消えた状態になっている。

 内外のバーナーコックを二つとも全開で開ける。

 同時に口の長いライターで火をつける。

 ボッ。

 ガスの匂いが鼻をかすめると同時に、炎に押し出された空気の圧力と熱を感じる。

 バーナーの火炎が勢いよく北京鍋の底を炙っている。

 中華用おたまで香味油を入れ、回転させながら鍋肌にまわしてなじませる。

 鍋を持ち上げ、お玉を使って余分な油をジャーレンの乗っかった寸胴に落とす。

 振り返ってしゃがみこみ、冷蔵庫に入っている小さなステンレス製寸胴から溶き卵をおたま一杯分すくいとる。

 もとに向き直ると、鍋肌から薄く煙が立ちあがりかけたベストな状態だ。

 お玉いっぱいに入った卵を鍋にいれる。

 ジャァッ!

 ポスト印象派の狂える天才絵師、ファン・ゴッホが見たらうっとりするような黄色が跳ね、躍り、舞う。

 お玉で卵を軽くまわしつつ、途中、塩を適量加えた上で鍋をふる。

 半熟状態の卵が、まだ重い液体状の中身を抱えて震えつつ回転する。

 卵の焼ける香りが鼻腔に満ちる。

 僕は、食材の中でも卵の焼ける香りが一番好きだ。

 個人的な記憶のせいだとは思うが、最も食欲をそそられる。

 まだ固まりきらないうちに卵をジャーレンの上に置く。

 ここまで着火してから三十数秒ほど。

 間をおかず、冷蔵庫からトレイに入った豚肉を出す。

 豚肉はこの店の二番人気、スタミナ飯用の特製タレに漬けこんだものだ。

 鍋に豚肉投入!

 とたんに漬けダレを含んだ肉の焼ける香ばしい匂いが鼻先をかすめる。

 そこへ脇においてあるニラをむんずと掴み、中華鍋へと均等に投げ入れる。

 ここからはスピード勝負。

 葉物であるニラがシナシナになってしまうからだ。

 すかさずジヤーレン上の卵焼きを投入。

 優しく、卵をいたわるような動きを意識しながらやさしく和える。

 次にXOジャンでもいいのだが、ここではシンプルに少量の醤油を加える。

 卵、豚肉、ニラ、醤油。

 至高のカルテットが奏でるかぐわしき香りのハーモニー。

 よだれの出そうな匂いに、胃袋がクギュゥとせつない声をあげる。

 そして最後に鉄則である味見をする。

 おたまでごく少量のニラ玉をすくって食す。

 うん、完璧。

 もっと食わせろと胃袋が不満の声をあげるのにはかまわず、出来立てのニラ玉を平皿に持ったホカホカご飯の上へと丁寧にのせる。

 あー、はやくこいつをワシワシとかきこみてぇ。

 素直な感想を押し殺し、再び鍋に向かう。

 鍋をササラで洗い、速攻で着火し鍋を加熱する。

 みるみる鍋が乾いていく途中。

 ふと思いつき、振り返って未来に声をかける。

「さっきのお客さんに出した試作のスープですけど、半ラーメンにもらっていいですか?」

 テーブルをふく手を止め、じっとこちらを魔女の目で凝視した後、フフンと未来が笑った。

「いいよ。使いな」

 許可がおりるやいなや、寸胴にささっているレードル(この場合は計量用おたま)でスープをとり、鍋へと注いだ。

 初めてのスープなので味見をする。

 淡い。

 多様な具材が渾然一体となり、それでいて澄んだやさしい滋味が舌先を伝う。

 数年前に流行った淡麗系のスープだ。

 淡麗系の多くは主として魚介系や鶏からとったスープを使う。

 下っ端の僕が言うのもなんだが、プロで和食をやっている爺さんが認めただけのことはある。

 だけどこれは……。

 手間がかかっている。

 いや、正確に言うなら手間がかかり過ぎている。

 大衆中華の店で使うには原価がかかりすぎるのではないか、余計な心配が頭をかすめる。

 もしもこれをやるならこんなブラック企業経営の多店舗フランチャイズ店より……。

 悲しい予想が頭をかすめる。

「おい」

 息遣いの聞こえる距離。

 未来がそこにいた。

 呪いをかけるような圧力を持った眼差しを僕に向けて。




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