第2話
未来が立っている。
身長は履いているヒール差し引いても僕より数センチ高い。
しなやかな筋肉が、服の上からでも見てとれる。
その筋肉はボディービルダーの美化された筋肉ではなく、長距離ランナーのスタミナとウェイトリフティング選手の瞬発力を兼ね備えた奇跡の筋肉だ。
背後から感嘆を含んだざわめきが聞こえる。
何故なのかはわかっている。
客は未来を見てざわついているのだ。
いや正確に言おう。
黒のキャミソールごしに見える、未来の重く揺れるバストを見てだ。
「ニシシシシ。女の子泣かしちゃダメだよー、ジン。さぁヤるよ!」
とまどう女の子の肩に手をまわすと、彼女をつれて未来は厨房の奥へと消えていった。
白状しよう。
僕は心の底から安心した。
頭の中では怪物絶望君が舌打ちをしながら消えていく。
入れ替わるように冷静な思考と記憶が戻ってくる。
もうすでに麺が茹で上がった時間だ。
瞬時に体が動き出す。
厨房に入ると、ざっと手を洗い茹麺機へと向かう。
すでに6つの麺は引き上げられ、湯切りもすんで丼に入っていた。
「アレ?」
戸惑いが思わず口に出る。
一瞬、おっさんに感謝しかけたが心の中で打ち消す。
このおっさんはそんなタマじゃない。
理由はすぐに推測できた。
未来のせいだ。
おっさんは店長である未来の登場に、あわててネコをかぶったのだ。
憮然とした顔つきで、おっさんが北京鍋から丼へとスープをそそぐ。
腹の中で大笑いを押し殺しつつ、僕はトッピングにとりかかる。
「ブハッ!」
近くのカウンターで食っていた客数人がいきなりむせはじめた。
視線をとばすと、むせている客や麺を持ち上げたところで動きを止めている客、その他は口をポカンと開けていたりといろいろだ。
客の視線は僕をすりぬけ、厨房の奥へと向けられている。
さっきまでの安心感は吹き飛び、ひどくいやな予感を感じた。
いや、予感というあいまいな言葉では足りない。
これは確信だ。
となりでガンガン動いていたおっさんまでが奥を見て動きを止めたからだ。
恐る恐る振り返ってみると女の子の腰を抱いて未来が熱烈なキスを女の子にしていた。
「んッッ!……ンッ……」
唇を合わせるだけのかわいいキスではない。
濃厚でディープなヤツだ。
顔を紅潮させ未来を押しのけようとしていたが、女の子はやがて未来を受け入れるかのように力を抜いた。
『ちょ、ちょっと待てぇぇえ!』
混乱して叫びだしそうになるのを必死にこらえる。
『なに!?いったいどうして!?いや、バイトの子も何を受け入れようとしてんだよッ!』
女の子の上気した顔から未来が離れた。
二人の口中で溶け合った液体が淫らな糸をひく。
未来の口角がするどくつりあがった。
凄みのある魔女の笑みを浮かべて未来がこちらへ顔を向ける。
「何見てんだ。手ェ動かせェ!」
大音声がとどろき、僕とおっさん、カウンターにいる数人の客がいっせいに視線をもどした。
「どう?落ち着いた?」
うって変わって冷静な声で未来が女の子に尋ねている。
未来の言葉に「はい」と女の子が甘い声で答えた。
「よし。じゃこのお冷飲んで……オッケー。それじゃ次に深呼吸をして」
そっとのぞくと、コップを手にゆっくりと深呼吸する女の子が見えた。
可愛らしい動作で深呼吸を繰り返している。
女の子のうるんだ瞳をみてある単語が脳裏に浮かぶ。
吊り橋効果。
でもこんなやり方ってありかよ。
「もう大丈夫です!」
女の子が元気に返事をした。
「よかったー。あともうちょっとがんばってね。ホールに一人出すからとりあえず外にいるお客さんから食券預かってきて」
ふわふわと、はねるような足取りで女の子がホールに出て行く。
麺をあげてトッピングをしつつ考えた。
今の状況を未来のように僕は対処できたのだろうか?
水を飲んで深呼吸をするやり方は僕も未来に教えられた。
だが問題は女の子の完全に折れた心だ。
僕が女の子にキス?
却下。
警察に訴えられてしまうのがおちだ。
泣いている女の子に懇願して働いてもらう?
これもだめだ。
最低レベルまでテンションの下がった女の子を一分で元に戻すのには無理がある。
未来がやった事の本質は何だ?
女の子を非日常的な行動で混乱させて、意識を元の状態に引き戻す。
僕がやるなら……頭を地面に押しつけての土下座ぐらいしか思いつかない。
それでも未来のように短時間では無理だろう。
これ以上考えても無駄だと判断して、記憶の片隅にメモをとると仕事に集中することにする。
「ジン!ホールのサポートと洗い場まかせッぞ!センターに入る」
髪をまとめて頭にタオルをまいたあと、未来が腰に前掛けをかけながら叫ぶ。
基本的にラーメン屋のオープンキッチンスタイルにおいて、大まかに言うと作業は四つにわかれる。
おっさんがやっている調理を実際に作る作業は『ナベ(鍋)』。
未来の言っていた『センター』とはデシャップともいうが基本的にトッピングと全体の統括。
僕のやっている『洗い場』は文字通りさげた食器を洗って乾燥機にいれる作業。
そして実際に接客をする『ホール』だ。
「ハイッ!」
手を動かしながら僕が絶叫に近い声で叫ぶ。
非常に稀だが未来のような人間はいる。
一緒なら、地獄の底まででもついていくことを覚悟させるカリスマ性を持った人間が。
こう言うと信じてくれない人がいるのは百も承知なのだが、現実にいたりもするのも確かだ。
「トロッ!てめぇアタシの店で何やってくれてんだ?」
未来の恫喝する声が響く。
本気で怒っている声だ。
トロというのは未来だけがおっさんを呼ぶ愛称だ。
ちなみにトロールからとったわけではなく、店に入った当初は仕事がトロかったことからきている。
「スイマセン……」
おっさんの小さな声。
本気でおびえている声音だ。
おっさんは未来より一回り以上年齢が離れている。
だが、基本職人は仕事ができるかどうかで年齢は関係ない。
仕事の腕、役職は未来が上だ。
さらに言えば、持ち場の担当がはっきりしている下っ端ならともかく、さっきまでは副店長であるおっさんがこの場を仕切らなければいけない。
その仕事がこなせていないと怒られているのだから、事実である以上おっさんは謝るしかない。
『ケケェッ!ザマァァ!』
いきなり復活した絶望君が心の奥底で叫びだす。
僕は絶望君を無視してラーメンの丼にトッピングを続ける。
僕の仕事をこなす技量と役職はまだおっさんの下だからだ。
文句を言うなら、せめて仕事の腕がおっさんに並んでいなければいけない。
あがった丼をホールに出しつつ未来を見る。
ちょうどこちらへ向かってくるところだった。
髪をアップにまとめ、ちょっとつり目がちになっている。
その顔はサンピエトロのピエタに似ている。
ミケランジェロが創作した慈悲の聖母像。
父親だったかもしれない人がネットで画像を貼り付けている掲示板をみせてくれたので覚えている。
父親らしき人の顔は思い出せないのだが、その聖母マリアの顔だけはよく覚えている。
死児であるイエスを抱きしめる母親。
おさえられた悲嘆の底に息子への愛情がとけている。
未来は僕の方へとまっすぐに向かってきた。
シンメトリーで端正な顔だ。
歩調を変えずにやってきた未来にぶつかりそうになり慌てて入れ替わろうとした瞬間、いきなり未来が僕の顔を両手ではさんだ。
ちょうど僕の両耳のあたりに未来のしっとりとした両手があたっている。
心臓のビートがはねあがった。
未来の顔が近づいてきた。
さっきのキスシーンが脳内で明滅している。
「えぇっ!ミ……店長ォッ!」
顔が数センチの距離になり、鼓動がさらに激しくなる。
未来の唇。
リップグロスを使っているかのような唇だ。
そのやわらかで厚みのある光沢を放つ唇がせまってくる。
すると未来のきれいな口角がつりあがり、白い歯をのぞかせるいつものチェシャキャットの笑みが浮かんだ。
「ニシシシシ、バーカ!ぼけっとすんな」
笑い声とともに未来は僕の額に頭突きをいれた。
おっさんのおたま攻撃に比べたら優しくなでられたようなものだ。
「洗い場サポ入るから、ホールをよく見ててくれ」
そう言って未来がポンと僕の頭を叩いた。
「ツッ!」
おっさんに殴られた頭をさわられ思わずうめき声がでた。
不審に思った未来がぐりぐりと僕のたんこぶを触る。
奥歯で悲鳴をかみ殺す。
「わかった……早く洗い場へ行け」
「はい!」
洗い場へとダッシュする僕の耳に鈍い音が届いた。
おっさんが僕の頭を殴ったときより数倍でかい音だ。
何の音かは考えなくてもわかる。
それにしても複雑な気分だ。
十分に満たない時間で絶望的な状況が一変しただけでなく、未来は僕の精神状態も救ってくれたのだ。
キスじゃなくて頭突きだったのが不満だが。
いや、救われたのは僕と新人の女の子だけではない。
おっさんもそうだ。
耳からはおっさんに厳しい言葉をかけながらも、最後にはほめている未来の声が聞こえる。
中華鍋をふる音から、おっさんが気合をマックスでいれているのがわかる。
僕のとやっていた時とはスピードが段違いだ。
手加減されていたのかと思うと腹がたつが、今やるべきことはホールのサポートだ。
「ラーメン配ってきます!」
未来が僕に声をかける直前のタイミングで動き出す。
「頼む」
できあがったラーメンを出しながら未来が微笑む。
この笑顔のためならなんでもできると思わせる笑顔だ。
脳内のPEAとドーパミンが手をつないでダンスをはじめる。
世界が彩度を増し、光を放ち、多幸感が身体を包みこむ。
自家製合法ドラッグの快楽。
金を払い、さらには法律を犯してまで違法ドラッグに手を染めるやつの気がしれない。
合法ドラッグでガンギマリの僕は浮かれた足取りで、客の応対をしはじめていた。
さげた皿を手に洗い場へときた僕は、いつものようにお湯をはったシンクへ皿を沈めると周囲の状況を確認するため未来の方をみた。
「ジン、こっちへ来い」
手元に並んだ丼にすばやくトッピングをしつつ、未来が小さく声をかけた。
こちらに顔は向けない。
いやな前兆だ。
手をふきながら、何か失敗したかなと不安な気持ちで未来に近寄る。
「今、奥のテーブルについた客に気をつけろ……」
客には聞き取れないほどのささやき声。
未来が魔女の顔をのぞかせる。
奥のテーブルを見ると、爺さん、娘、孫といった組み合わせの客が見えた。
僕の目にはいたって普通の客にしか見えない。
「敵だ」
未来の怒りを含んだ声がした。
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