ずももももももも! と、どこかで聞いたことがあるような無いようながらがら声と、巨岩を転がすのにも似た足音とが騒然と入り混じって響き渡った。
何もかもが一瞬にして暗転する。
チェシーは息を呑んだ。少女の気配さえもが消え失せている。
だがすぐにこれが夢であることを思い出す。腕の中の重みもまた戻ってきている。
急くことはないのだ。もはや手に入れたも同然とばかりにいつもの傲岸な態度を取り戻し、春機の笑みをかすめさせたところで。
チェシーはふと何とはなしにたじろいだ。
少女が、かすかに身じろぎする。
ベッドが凄まじく軋んだ。
……。
気のせいだろうか。腕に掛かる重みと、みるみる増してゆく違和感とが、いきなりみしみしと凄まじく心を揺るがし……
いや待て。
チェシーはぎょっとして眼を剥いた。みしみし言っているのは違和感などではない、ベッドそのものだ。
そう思って見下ろしてみれば、身じろぎしたように見えたのはそもそも少女ではなく、むしろ少女の首筋から背中にかけて広がる頑強なる僧帽筋そのものであって、更にそれがまた何やらもの言いたげな様子でビクビクッと痙攣したかと思うと、
――のどぼとけが、ぐりっ、と。
チェシーはぎくしゃくと眼をそらした。
なぜかやたらと冷たい汗が背筋を伝ってゆく。激しすぎる衝撃を受けたせいかうつろになった意識に必死の喝を入れながら、脳細胞を最大限働かせにかかる。
今、腕の中にあったのは本当にレイディだったろうか。
きっと気の迷い、あるいは心の迷いが生み出したまやかしに違いあるまい。いくら夢とはいえ、いくら同じ顔かたちとはいえ、たおやかなレイディをよりによってあの貧相なちびと見まごうとは。
いや、既に違える方向自体を間違っているような気がする。そもそもニコルがあんな男っぽいだみ声で喋るわけが――
男!
「どうがじまじだがヂェジーざん」
野太い銅鑼声がびりびりと空気を震わせた。チェシーは心底恐怖して仰け反った。
「ニ、ニコル!」
「ぞんなにじろじろ見ないで」
いつの間にすり替わったものか、ニコルはきゃっ、とか言いながら手を結びあわせてモジモジと身をくねらせた。見る間に上腕の筋肉がもりもり隆起する。
「ば、恥ずがじいでず」
「貴様、いつの間に」
あまりの気味悪さに全身の力を込め、ぶん殴る。
いつものニコルなら、ここは当然ゴキンと目から火花を散らしざまに机やら何やらをどんがらがっしゃん巻き込みつつ吹っ飛んでいって、そのあと真っ赤に腫れ上がったたんこぶを抱えて目の幅涙でぐがああ、と悶絶するところである。しかしあろうことか夢の中のニコルは、チェシー渾身の拳骨をはっしとばかりに受け止めた。
「ぐっ……」
振り下ろしたはずの拳骨がまるで動かない。冷や汗が流れる。万力で掴まれたかのようだった。
まっちょは可愛らしく不気味にニヤリと笑った。
「だってヂェジーざんこの間言ったじゃないでずが、もっど筋肉づげろっで。忘れだどば言わぜまぜんよ。ぼら、見で僕の筋肉!」
いっそう凶悪な逆三角形の超筋肉体型と化してゆきつつ、ニコルはひょいと起きあがった。腰に手を当て、うっとりと光る大胸筋をピクンピクン恥ずかしげにふるわせる。
「ま、待て……見せるな……!」
絶句するチェシーの前で、まっちょニコルはいきなり前屈みになって両腕をぐっと突き合わせるなり、見事に割れた腹直筋および外腹斜筋を誇示するや、白くこぼれる歯を燦然と輝かせ、破壊力絶大のウインクをうっふんとぶちかました。
瓦解――!
次の瞬間、せつなき愛の交歓を夢見たチェシーの精神世界は無情なる瓦礫と化して一気にがらがらと崩れ去った。
何という破壊力か。まさしく悪夢。
チェシーはわずかに残った自我の光にすがりながら呆然と考えた。目が覚めた頃にはおそらく一夜にして総白髪化しているに違いない……
「……ヂェジーーーーざぁぁぁん!」
「ちょっと待て!」
ふいに我に返る。
レイディがまっちょに変わり、まっちょがニコルに変わるということはつまりレイディが――
チェシーはちりぢりに霧散しかけた自我のカケラを必死にかき集め、怒鳴った。
「何故レイディが貴様に変わる!」
「やだなヂェジーざん」
まっちょニコルは小首――どちらかというと激しく猪首に近しかったが――をかしげると、身体を横にひねって力を入れ、ばふんと鼻息も荒く広背筋を見せびらかす。
チェシーは卒倒しかかった。このまま意識を失うことができたなら、どんなにか魂の安息を得られることだろうか。