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「コトバ」をさまよえる短篇に追加しました。

https://kakuyomu.jp/works/16818093078137625038/episodes/16818093082179759803

うるさい時代になった、と思う。
受験でも就活でも、言語化が要求される。
私のような言語が割と得意な人間には生きやすい時代かもしれない。

更には、インターネットで自分の作品を投稿する人が増えた。
今回の短編中では、「アートも一種の言語だ」と説が展開される。
言語、というと定義が難しいが、「自己主張」と簡単に言い換えることはできる。

自己主張が激しい時代になった。
自己主張が要求される時代になった。
西欧化の影響だろうか?
高度情報化社会によるものだろうか?

目に見え、耳に聞こえ、データとして圧縮し、簡単にやり取りすることが可能な「言語」たちが重視される時代において、思う。
それ以前のコミュニケーションはどのようなものであったのだろうか、と。

谷崎潤一郎「細雪」を読んでいる。まだ最初の部分だ。とてもまだるっこしい。
家族の縁談をどうこう、という話なのだが、人と人とが「確かなもの」をやり取りしている形跡がない。自信を持った受け渡しがない。だからコミュニケーションがまだるっこしい。ちゃっちゃと本音を言えばいいのに、と思う。
でも、なにかその人の癖や呼吸のようなものが行間から染みだしてくる。
データ化可能な「言語」でアピールされる「個性」より、そんな些細なものこそが、その人の生き方の尊厳なのではないかと思う。

***

私たちは、常に選択を迫られている。
「何を語るか」ではない。
「どの手段で語るか」であり、
「何を語り、何を語らないか」の選択である。


いろいろ書いて自分でも訳が分からなくなったが、このくらいにしておく。
この文章も、今回の短編も、「語るべきだったか」迷っている。
迷いながら書いている。

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