コトバ

 ある少女がいた。

 高校の図書委員をしていた私は、週に一度、図書室のカウンターに立ち、バーコードを読み込んで貸出手続きをするという業務を行っていたのだが、彼女とは毎回顔を合わせた。彼女は毎日図書室に来て、本を借りているようだった。

 借りている本の内容は源氏物語対訳からロシア文学、理系の新書から経済の学術書まで、多岐にわたっている、というより、難しそうなものを手当たり次第に引っ張ってくる、という感じで、見せびらかしているのかもしれないとも思った。彼女は前髪も重く、眼鏡をかけていた。終始俯き、存在感は薄く、気付いたらもう図書室から消えているという具合だった。

 本当に全ての本を読みこなすインテリなのか、ただ嬉しがって難しい本を借りては挫折している馬鹿なのか、それが気になった。逆に、それ以外は気にならなかった。不思議な人もいるもんだと思いながら、それは薄いベニヤ板に隔てられたくらいの謎で、解けてしまえば何の面白みも深みもない、そういう話だろうと考えていた。

 ある放課後、私は図書委員の仕事で遅くまで残り、そのあと委員の特権で図書室にとどまり、ひとりで読書をしていた。物音がした。図書室の引き戸が開けられ、姿を現したのは彼女だった。私はびっくりして、栞を挟むのも忘れ、本を閉じた。

「どうしたんですか」

 警戒の気持ちを混ぜて言葉を発する。

「あ、あの……、図書委員さん、ですよね」

 初めて聞く彼女の声は、年相応な、少し人見知りの女子の声だった。

「そうだけど。何かある?」

 私は心に浮かんでくる疑問を抑え、親切な声色を使う。

「相談、乗ってくれませんか」


 本が読めないんです、と彼女は言った。両手でメガネの端を支えて直していた。私は隣の椅子を引いて、彼女に勧めた。彼女との距離が近くなり、今更ながら、彼女が私にくらべて随分小さいことを認識した。

「本が、読めないの?」

 私はオウム返しをする。柔軟剤かシャンプーか、彼女からは控えめな香りがする。

「はい、本が読めないんです」

 彼女は繰り返す。私は頭の中で、次の質問を考える。悩みの本質に迫るためのいくつもの分岐したチャートを作り出そうとして、面倒になってやめた。

「これは、読める?」

 先ほど栞を挟み忘れた、三島由紀夫を手渡す。

「それは、読んだことあります。でも、今読んでみたら、読めないと思います」

 私はその本を読んでみるように言った。彼女の動きは少し異常だった。まるで無目的に手を伸ばし、対象物を掴む。本来、人間の動作には目的があって、人の意識はその目的にあり、そこに至る過程は無意識のうちに行われるはずだった。今の彼女の挙動は、過程それ自体を強く意識し、動けと言って腕を動かしているような不自然さがあった。

 しばらく最初のページに目を落としながら、血の気の薄い唇をぶつぶつとさせていた彼女は、ふと姿勢を正し、腰の位置を変え、同時にページから目を離した。図書室の丸い掛け時計を確認していた。やけに長い間確認していた。そしてまたページに戻った。ぶつぶつと呟き始めた。ずっと同じ行を読んでいるようだった。


 彼女に質問すると、何度読んでも意味が入らない箇所があると言った。それは平易な本でもそうなのか、と尋ねた。簡単な文章ほど、何を言っているのか分からなくなるの。不思議だった。

「会話をしていて、相手が一方的に話している時があるでしょう。私だって話したいことがあるのに、遮ることができずにえんえん人の話を聴いている時。それで、内容が入らなくなる。自分の言葉だけが体を巡る、他は拒否する」

 ネオテニー、という言葉を思い出した。幼態成熟。動物が、身体に未発達な部分を残しながら性的に成熟すること。彼女は言語だけが肥大している。それを紡ぐための声はまだ幼く、不安定で揺れている。言葉だけは安定し、しっかりとした地盤の上に確かな土台と骨組みを築いている。

「本は、その人の考えを延々と述べているだけだから、読めなくなるのかもしれない。双方向の会話でないと意識が継続しないのかもしれない」

 彼女は冷静に自己分析を進める。

「本を読んでいる時と、人の話を聴いている時が、同じになるんだね。内容が入らなくなる状態におちいる」

 私はそう言う。言いながら、自分もネオテニーかもしれないと思う。

「そう、本は、読みたくて読む、会話は、したくてするものじゃない。そこに本質的な違いがあると思っていたけど、どうやら違うみたい」

 彼女はまた、メガネの両端を手で支える仕草をした。

「いいや、したいかしたくないか、それは重要なことじゃないかな」

 彼女の顔をちらりと伺う。あまり表情の変化がない。私は糸口を発見する。

「本当に、好きで本を読んでいる?」

 彼女の動きに反応があった。いきなりボールが来て、反射で身を縮こまらせるような、そういう速度だった。

「はい」

 彼女は慎重にうなずいた。

「じゃあ、本当に会話が嫌いなの?」

 また、彼女はうなずく。

「それは、読書の本質部分が好きなのかな、それとも、付随する何かが好きなのかな。例えば、ひとりでいられることとか、現実を忘れられることとか、太宰の文章に浸っていられるところとか」

 彼女はあっけに取られて私を見ていた。あてずっぽうだった。なんとなく、彼女は太宰が好きだろうと思っていた。さらに偏見を交えて言えば、彼女はここで借りた学術書の類にことごとく挫折している。おそらく自分の好きな文学だけは読み進められるが、それ以外に手を広げることはできていない。

「本質部分の話をしよう。人の話を聴くことと読書をすることは、本質的に同じだ。その本質とはつまり、自分の好きな人の話は聴きたいし読みたいが、それ以外は退屈でしかないという事だ」

 彼女はぼうっと、本の裏表紙を眺めている。

「人は自分の言葉で吠える。自分の好きな言葉以外は入ってこないんだ。文学者は文学者の言葉で吠え、法律家は法律家の言葉で吠え、宗教家は聖典を引用して吠え、数学者は数式で吠える」

 でも、と、彼女が口をはさむ。

 吠えない人はいます。全く吠えていない人はいます。何も表現せずに、そう、何にも悩まないで、何にも本なんて読まずに、恋愛のことだけ考えていて、いや、実際どうなのかはわからないですが、私はそういう人が羨ましいです。羨ましいけれど、軽蔑しています。でも自分のことはもっと軽蔑しています。

「みんな、吠えているよ。僕から言わせればね。何も書き言葉だけじゃない。普通の会話だって言語だ。芸術、絵や音楽だって言語だ。スポーツだって、ファッションやメイクだって、セックスだって言語だ。なにも自分たちが特別なわけじゃない」

 彼女はまだぼうっと本の裏表紙を見つめている、いや、背表紙だろうか、新潮文庫、三島、赤色の……。

「たぶん、君の性格上、文学者に気の合う人が多かったんだ。ただそれだけだ。文学が、他の言語に比べて上等なわけでも下等なわけでもない。君は文学以外にも手を出そうとしていたけれど、それはしなくていいんじゃないかな。自分の嫌いな作家の本も読まなくていい。自分の言語だけで完結させればいいんだ。みんなそうやって生きている。わざわざ本を開いてまで、気の合わない奴の話を聴くことはない。そんなことをしているから本が読めなくなる」

 彼女の眼鏡に蛍光灯が反射して、目が見えなかった。ただ彼女の口元は完全に力が抜けていた。何かを言いだそうとする気配はなかった。

「あとは、そうだな、小説でも書いてみればいいんじゃないか。そう、さっき言ったように、ずっと人の話を聴いているのは疲れる。たまには自分もしゃべりたい。そうだろう? 文学を読んで、文学を書く。ネットにでも投稿すればいい。読者が一人でもいれば、それは立派なコミュニケーションになる。人との会話がうまくいかないから、そういって自分を卑下することはないんだ。自分の得意な言語で話せばいい」

 彼女は沈黙していた。私は何かがずれているような感覚に陥った。はじめ、私と彼女は同じ言語を共有していたはずだった。同じ文学好きの、理屈屋として。しかし今、どうしても、私と彼女の言語が別のものであるかのような気がしてならなかった。届かない玉をいくつも空中に放っているようだった。

 静寂の時間は長かった。私は彼女の姿勢が、伸びていることに気が付いた。ここに来た時は猫背気味だったのに、いまはぴんとまではいかなくとも健康によさそうな座り方をしている。掛け時計の秒針の音がカタカタと鳴る。あと何分で下校時間だろうかと私は内心焦り始める。彼女の控えめな香りが焦りを掻き立てる。それをいさめるように、彼女の呼吸の音が聞こえる。今まで全く聞こえなかったが、今ははっきり聞こえる。私の呼吸より、少し長い。私より体の小さい人の呼吸が、私より少し長い。呼吸の周期はずれていく、と思った。しかし、ずれずに、私の呼吸の方が長くなった。吸う瞬間と吐く瞬間の鼻息の音まではっきり聞こえ、戸惑った。それらの音は、あまりにはっきりとしていた。私の下着に汗がにじみ、その匂いさえ空気に染みだしていた。


 あれから、彼女は図書室に来なくなった。一度、高校の廊下で彼女を見かけたとき、その背筋は曲がっていなかった。真っ直ぐに、沈黙していた。


Fin.

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