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古代の関所―「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕え或ハ近衛大将ノ大詐術」の「七十」を投稿しました!

平安ファンタジー小説「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕え或ハ近衛大将ノ大詐術」の「七十 翠令、立ちはだかる関門を知る」を投稿しました!

翠令たちがいる京都と、佳卓がいる東国の間には「不鹿の関」という関所があるという設定になっています。

この「不鹿の関」とは、史実にある「不破関」と「鈴鹿関」とを合体させた架空の地名です。

書き始めの頃は、京の都と東国との交通について、現代と同じく東海道で行き来するものだと思っていたのです。
現在のJRの東海道線は関ヶ原を通ります。
なので、私はぼんやり「京都の都から岐阜県の関ヶ原を通過して東海道沿いに関東平野に出る」とイメージしていたのです。

ところが。
今の関が原のある地域は、律令体制下では「東海道」ではなく「東山道」。関ヶ原に存在していた古代の「不破関」は「東山道」の関所なのです。

東海道は、今と違って京都から伊勢の方に向かいます。その間にある関所が「鈴鹿関」です。現在では鈴鹿サーキットが有名ですね。

ええと。文字で書いているばかりではややこしくなるので、この記事にはWikipediaの図を掲載しておきます。
(権利関係については、ダウンロード時に「著者への言及が必要」とありました。
このWikipediaの画像は「Qrsk075 - 投稿者自身による著作物。舘野和己「古代越前国と愛発関」(福井県立図書館文書館)を参照。, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62318206による」のだそうです)。

さて……。
私は拙作を書くにあたって、出来るだけ自分が見聞きした場所を書こうとしています。
関ヶ原は何度も行き来したことがありますが(東京の大学にいた頃は神戸の実家と青春18きっぷで在来線で行き来したこともw)、鈴鹿には行ったことがありません。

もしコロナがなければ、京都から鈴鹿まで小旅行に出かけても良かったのですが……。タイミングがみつからないままでした。

史実では「鈴鹿の関」。私が通ったことがあるのは「不破関」。
そこで間を取って、「不鹿の関」という架空の関所があることにしましたw。

東国に抜ける街道の関所が、京都の朝廷の変事に応じて開閉される──固関・開関されることは史実どおりです。

史実では、不破関・鈴鹿関に北陸道の愛発関を加えて三関といい、その三関のWikipediaに固関・開関について比較的まとまった記述があります。

”非常事態が発生すると、朝廷は三関に固関使(こげんし)を派遣する。この際、蔵司が保管する関契とよばれる割符の左符が固関使に与えられ、三関で国守によって保管されていた右符と照合を行なう。これが一致すると非常事態と認められ、関が閉鎖された。これを固関と呼ぶ。非常事態が解消した後の解関(開関)も同様の手続きによった。”(Wikipedia「三関」)

関を閉鎖するのは東国から畿内への侵入を防ぐためである。特に中央で非常事態が発生した折に、その期に乗じての東国から畿内への侵入を防ぐ目的である。また中央の謀反者の東国への逃走を防ぐ目的もあり、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では、愛発関を閉じて仲麻呂が息子のいる越前国への逃亡を防いだ。”

固関の項目にも以下のように書かれています。

”延暦8年(789年)には「三関」の制度自体が廃止されるが、以後も固関が必要な事態が生じた場合には関の跡地を封鎖する手続きが取られた。”(Wikipedia「固関」)

この関所については、何もWikipediaだけに依拠していたわけではなく、府立図書館と京都府の歴彩館(府立の資料館)に「国史大辞典」を見に行きました。
今、メモ帳をどこかにやってしまったのですが……。たしか20人を超えると手続きが必要だと記されていたと思います。

ともあれ、拙作では、佳卓と連絡を取ろうにも、また佳卓に軍勢を率いてもらうにも固関がなされている不鹿関をどうクリアするかが問題です。

今回、翠令は自分が佳卓の許に向かうと宣言しますが……。
さて、彼女の道中はどうなるでしょうか。

翠令の旅が、事態を打開するカギとなります。
どうか、最後までご愛読賜りますよう。

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