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哲学について

哲学は、哲学自身にしか興味がありません。
それはわたしたちの生、あるいは社会、国家、宗教に対してなんらかの関心をはらうことは、ありません。
率直に言えば、役に立つ哲学は哲学ではないのです。
これは、どういうことでしょうか?

リベットの実験というものが、あります。
ひとが指を動かそうとすると、脳に電気的活動がおきます。
リベットの実験とは、ひとが指を動かそうと決意した時間と、脳に指を動かすための準備として電気活動がおきる時間と、実際に指を動かした時間の三点を測定したものです。
その結果、ひとが指を動かそうと決意するより前に、脳に電気的活動がおきていたようです。
この実験から推測されるのは、ひとの身体はひとの意識によって動作するより前に作動しており、ひとの意識は身体が動作した結果を事後的に受け取っているにすぎないということです。
これをわたしは、オートマチックの問題とよんでいます。

ひとが生きて生活をしている現場において、個々の動作、決断に必ずしも意識が介入して決定しているとは限らない。
ひとにはオートマティックに動作するシステムが組み込まれており、意識はその動作を事後的に承認しているだけともいえます。
ところが、そのオートマティックをうまく自身に組み込めないひとびとがいます。
そうしたひとびとは、自明性が壊れているともいえます。
ヴィトゲンシュタインについて、考えてみましょう。
彼は、全ての事象を理論的に説明しえたと判断して哲学から身を引き、田舎で小学校の教員となります。
ところが彼は、小学生たちによって自分が何も理解していなかったことを、教えられます。
彼は、「言語ゲーム」という概念を提示します。
結局のところ、自明性というものは、理論化することができない言語の遊技のようなものであるとヴィトゲンシュタインは理解することになったのです。

哲学者は、自明性が発生する以前に遡行し、そこになにがしかの体系を見出そうとします。
それは、意識の前形成領域に探針を送り込む行為であるといえるでしょう。
わたしたちは自明なことは自明であるとし、それに疑義をはさむことはありません。
しかし、自明性を憶測(ドクサ)として退けるひとびとは、それが形成される以前の領域へと入り込もうとします。
しかし、そこはある意味では「語れざるものについては、沈黙しなければならない」領域でもあるようです。
だから、その試みは頓挫することを、運命づけられています。
それでも尚、その混沌とした領域へ旅立とうとするひとたちは、います。
彼らの試みが、わたしたちの生にたどりつくことは、ありえないのです。


3件のコメント

  • 憑木影さま

    興味深い近況ノートの内容でしたので、コメントを書いてしまいます。
    憑木影さまが「オートマチックの問題」と呼んでいる代物ですが、昔軽く読んだだけの記憶で確証はないのですが、それは確か「ゾンビー」と呼ばれる機能だったかと。
    たとえばコンピュータがOSを基幹ソフトとして機能群を構築するように、生き物の脳にもOSに該当するものがあるという話でした。
    目の前にあるリンゴを手に取るという行動一つ考えてみても、
    ・距離を測る
    ・距離に合わせて腕の筋肉を操作する
    ・手のひらの開き方、向きを考える
    ・指を動かす
    ・指や手のひらから伝わる感触から硬さを測る
    ・軽く持ち上げて重さを測る
    ・落とさないように重心に気をつけつつ持ち上げる
    と行間も含めてきりがないほどの制御が必要で、これを考えながら日常を送るのは不可能です。
    ですので、そこは合理的なシステムを持っている筈ということなのでしょう。持っていなければ成り立たない話なのでしょう。
    それを司る存在を「ゾンビー」と呼ぶという話だったと記憶しております。
    コンピュータでいうところのOSやドライバに当たる機能だと考えて良いのかなと思っております。
    これに関して私は何度か実験をしておりまして、その存在を示唆する結果を得ております(あまり当てになりませんが)。
    その上で、先読みというものもあるかと思われます。これも合理的な機能です。これがないとスケジューリングが困難かと思われます。
    先読みというのは、あらかじめ想定されうる行動をいくつかピックアップしてそれを想定した準備を先に始めておく機能です。
    複雑な運動を可能とする生き物は、どうしても動きに遊びの部分を持っています。その遊びをバッファ的な位置づけにして、余裕を持った行動を可能にしているのではないかと考えられるわけです。
    自然界は合理的なシステムで成り立っており、生き物もやはり合理的なシステムを持っていると考えるべきかと思います。
    合理的なシステムを考えていくと、いろいろな機能が考えられるわけで、それを生き物だからという理由で否定するわけにもいきません。
    人の脳は、計算というよりも推論や推測を全面に押し出した機能を持っていると私は考えておりますが、それを正しいとするなら、このような機能においてコンピュータよりもはるかに向いている話だとも思えます。

    ”哲学”についてですが、哲学は考える人や時代や環境によって方向性がいろいろとあるように思えますが、私は単純に”科学”みたいなものだと思っています。
    ”学問”として形を成す為の方法論ですね。
    科学は万能ではない=なんでもできるわけではない
    を方法論として否定する。つまり、現在の科学的アプローチでは絶対に解決できない問題がある、と考えるなら正しいかと思いますが、これを知らずに「それが何か」を想定しないままになんとなく否定してしまうと、何を言っているのかよくわからないことになってしまうことがあります。
    ですので哲学を方法論として定義してしまっている私には、憑木影さまのおっしゃる哲学が何なのか見当がつかない、となってしまいかねないのですが、そこは哲学的にアプローチして、”哲学”を分解しようと試みるのは、点と点の間を無限に微分する終わりの見えない計画を立てて途方に暮れる行為だと想像する次第です。
    そういうの好きです。
  • 林檎無双さん。

    コメントいただき、ありがとうございます。
    なるほど、ゾンビというのですね。
    それだと、意識ではなく混沌(カオス)に駆動される感じがあって、かっこいい気がします。
    昔、ピアノを弾いていたころがあります。
    ピアノを弾くときには当然運指をいちいち意識するわけではなく、意識は曲が身体によって演奏されるのを眺めるかんじなんですけれど。
    そのころ、即興演奏をしようと試みてたんですよね。
    ジャズのコード進行を決めて、フレーズを自由に選択していくようなフリーインプロビゼッションではなく、デレク・ベイリーがギターでやっていたような演奏をピアノでできるものかというのを試していました。
    そのとき、身体から曲が立ち上がっていき、意識はほとんど何も把握できておらず、録音した曲を聴いてなんとなく自分が何を演奏しようとしていたかを知るという、感じでした。
    その時は、カオスが身体を支配している、という気がしましたね。

    哲学についてなんですが、ジル・ドゥルーズが「ニーチェと哲学」で以下のような大変こころをうつ文章を書いています。
    「哲学は何の役に立つのかと問われたとき、答えは攻撃的でなければならない。なぜなら、そのような問いは皮肉で辛らつたらんとしているからである。哲学は国家や教会の役には立たない。国家や教会には別の関心事がある。哲学はいかなる既成の権力にも役立たない。それは悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も不愉快にしないような哲学は哲学ではない。哲学は愚劣をやっつけるのに役立ち、愚劣を恥ずべきものとみなす。それは次のような使用法以外のものをもたない。つまり、あらゆる形態における思惟の低俗さを告発すること。」
    この文章がとても好きなんですけれど、でも国家と教会の側にたってみれば悲しませるだけにしか役に立たないものなんざ、いらねぇよ、ってなるよなと思った次第です。
    で、それってなんだろうなと考えて、まあ哲学にとってしか哲学って必要ないんじゃないのって思ったわけです。
  • @hallucinativeさん。

    コメント、ありがとうございます。

    科学って、そうかもしれない、ってものだと思うんですけれど、一部のひとは真理体系のように使っている気がしますね。
    唯物論者は科学的認識が唯物論を保証してくれると、思っている気がします。
    でも、それって信仰が実在を保証すると考えたデカルトと同じじゃないの?と思ったりもします。
    科学的認識って、進化していくという幻想があって、いつの日にか「万物理論」みたいに全てを説明できるようになる日がくると思われてるんじゃないかとも思います。
    まるで、ヘーゲルのウルトラ化みたいですが、それこそ幻想だという気はします。

    ジル・ドゥルーズは自分の論文の冒頭で、これはサイエンス・フィクション(知の虚構)だとことわりをいれています。
    そういう意味では、彼は良心的だなあと思うんです。
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