あの異様な部屋から抜け出した俺は、ユリの誘導に従って移動していた。どうやってか、ユリは研究所内の警備兵や研究員の配置がリアルタイムでわかるらしい。そのおかげで研究員や兵士たち、果ては対異能者用強化装甲服を着こんだ主任の部下たちとも鉢合わせせずに済んでいるが、そうした力もこの研究所で与えられた力だと思うと吐き気がする。
「クソッ」
思わず小さく悪態をつき、苛立ちのままに地面をけり上げようとして。
ふと思う。
この研究所で与えられた力?対異能力者用強化装甲服?
そんなもの、俺は知らない。そう、俺がそんなものを知っているはずがない。だって俺は今朝、気が付いたら見知らぬ部屋に閉じ込められていたのだから。自分の名前だって定かではないのだ。あくまで、ベッドわきのバインダーに自分の名前と思しき名前が記されていただけ。自分が知らないはずのことを『知っている』という得体の知れない事実に思わず吐きそうになる。
(大丈夫?!タロちゃん!しっかりして!)
脳裏に心配そうなユリの声が響く。
「ああ、なんとかな……。」
声を絞り出す。荒れそうになる息を必死に抑えながら。それにこの声の持ち主。ユリという少女も俺の記憶にはない。だから本当はこの声のことも疑った方がいいのかもしれない。だが何故だか、この声の持ち主を疑う気にはなれなかった。むしろ、この声を聴いているとひどく懐かしいような気持ちに襲われる。それとともに感じる喪失感。それこそ身を分けた半身を失ったかのような。だがそれ以上何かを思い出そうとしても、もやがかかったようにうまく思いだせない。。いや、それはもやというよりもどこまでも深く、暗い奈落の底。記憶をたどるうちに俺の意識はゆっくりとその奈落の底に落ちていきー
(タロちゃん!!)
脳裏に響く大声に引き戻された。
(タロちゃん、君は私の分まで生きて、ここから逃げ出さないといけないの!!ぼんやりしないで、しっかり立って!!私の命を……無駄にしないで!)
そうだった。俺は逃走中だというのに。何をぼんやりとしていたのだろう。それに知らないはずのことを知っているというのは気持ちが悪いが、それが害になるとは思えない。むしろ、これからの脱出の助けにはなるはずだ。
「すまん、ユリちゃん」
心配をかけたユリにはしっかりと謝る。だけど、と続ける。
「ここから逃げ出すのは俺だけじゃない、お前もだ。何があっても俺はお前を助ける。俺を信じろ……!」
(ありがとう、タロちゃん……。)
その声は涙声でくぐもっていたけれど、どこかひどく懐かしくって。記憶にはないけれど、ユリはとても大事な人だったんだとの思いを強くする。若干それが気恥ずかしくって、その思いを振り払うように尋ねる。
「それで、警備の様子は?」
(うん、大丈夫!屋内の巡回の頻度は下がって、主に外の捜索に移ったみたい!今なら警備も手薄だし、きっと脱出できるよ!)
おそらくうまくやり過ごしたことから、すでに外へ逃げおおせたと警備陣は勘違いしたに違いない。確かにこれなら、ユリの言う通り脱出も可能そうだ。その途中で、ユリを救う手段の一つや二つ、見つかるだろう。
「よし、ありがとう。」
俺は一つうなずくと、薄暗い廊下を、静かに走り始めた。
━歴史にはIFはない。
━だがあえて語るのであれば、俺はもっとよく考えるべきであったのだ。そうすれば、あんな結末は避けられたのに。
━だが少年よ、心せよ。後悔とは後から悔いるからこそ、後悔というのだと。