noteに書いた記事の自選傑作集1(続くかはしらん)
なおnoteは別名義である。髙文緒としてのアカウントも新たに作ってみようとしたことがあるが、なんか、出来なかった。
調べたらどうにかなるかもしれないが、調べるだけの気力もなく。
まあええわとなっている。
ではゴー。
【タイトル:雑草という名の草はある】
いつもnoteにはどうでもいいことを書いている。
その時に思っていることを、頭が先か指が先かというくらいの軽い気持ちで、文節もてにをはも重複も論理の飛躍もなにも気にせず書いている。語尾も統一されない。これはいつもそう。
今はほんとうに全くネタがない。
その状態で垂れ流すとどういうことになるのかを見たくて書いている。
特に今回はテキストライブで動画という形で残すという試みがしたくて書いている。
(配信開始するの忘れてたから今配信開始した。)
記事の最後にURLはコチラ→をしようと思っている。(注 この近況ノートには貼りません)自分が後から見て楽しいかもしれないからである。
書くことがないまま書くということは、頭のなかで気持ちのよいリズムを探すことに似ているかもしれない。
漢字のひらきの話でもしようかな。
以前はそうでもなかったが、最近、「こと」は意識してひらいている。単純に私の技能が低くて「こと」を多用してしまうので漢字だとうるさいのだ。あとは「事」という漢字の含む意味が多すぎる、いや大きすぎるというのか、そういう側面もあるかもしれない。
事情、事務、事件、事故、事態、事業、家事、仕事、食事、万事、大事、他事……
「こと」が「事」になるとなにやら大変な「事」が起こらねばならない気がしてくる。
あと何か、ひらくようにした言葉があった気がしたが忘れた。書くたびに思い出している。その瞬間だけ思い出しているけどまだ身に染み付いてまではいないので、忘れている。
ところで今、オリオンビールのオリオンのWATTAというチューハイを飲んでいる。
パッションフルーツ味、アルコール4%。パッションフルーツというものをあまり食べないのでよく分からないが、主張が強くなくてよい。うす甘く、ほんのりと酸味がある。
と、ここまで書いて気付いたが、開くことが多くなったのは「もの」だったかもしれない。
物と者は明確に区別したいので、主に物を差すときに「もの」を使っている。
物の含む意味も事と同様に広い。対して者は狭い、気がする。だから者は「者」表記である。物は「もの」表記にしたくなる。
さらに思い出したが「とき」もひらくことが多い。
時に関してはそのときの気分なので、文章の流れによってひらいたりひらかなかったりする。
時という字の示す範囲は、考えてみれば広くも狭くもない。あくまで私の身体感覚での話だが。
最近の出来事といえば、ごみ捨て場への往復で人の家の庭をちら見したり、道を行く虫を見たり、道路を走る車を見たりしながら、といっても往復して1分くらいの距離なのだが、ものを考えるのにはまっている。
今書き出して気付いたが空は見ていないようだ。
この前は繁茂する雑草を見て、「雑草という名の草は無い」という言葉を思い出していた。昭和天皇が言った言葉だというのは知っているが(なお私は過剰な敬語を用いて彼らについて著す/表す慣習は嫌いである)、元は植物学者の牧野富太郎の言葉らしい。と調べているところで間違えて執筆中の画面を閉じた。戻ってこれてよかった。テキストライブ、優秀である。
この言葉が名言として人々の間に、繰り返し再生されるのはなぜだろうか。と雑草の茂る道の脇を歩きながら考えた。
背景として牧野博士が、小学校中退から理学博士の学位を得、多くの発見を残した学者であるという事実込みで心を打つもの、そういった型にきれいに収まっているというのは分かるが、実際にこの言葉が人々の口にのぼるとき、そこまでの情報を知った上で用いている人がどれだけいるだろうか。
むしろ昭和天皇の言葉、くらいに思っている人が多いのではないか。これは自分がそうだからそうに決まっているという勝手な思い込みだが、そこまで大きく外してはいないのではないかと思う。
さてどうして「雑草という名の草は無い」という言葉がこれだけ広まって、そして恐らく人の心を打っているのか。
表面上の理由としては、まあ雑草魂とか、そういう言葉が愛されるのと同じ文脈でしょうというのは分かる。
だがそれだけでは無いのではないか。
この言葉は、人を今までと違った見え方、考え方を、知ったような気持ちにさせる、そういった気持ちよさと「受け入れやすい程度のちょうどいいひっくり返し」がある。あまりに「ひっくり返し」が大きすぎたり、難解だったりすると、人はストレスを強く感じる。ちょうど良いひっくり返しがあると、痛気持ちいいくらいのストレスがあって、なにかすごいことを知った気持ちになれる。コンビニエンスになれる。
別にこの言葉が嫌いなわけでは無いのだが、なにかひっかかるところがあって、これだけだらだらと執着しているし、意地悪な見方をしているようにも受け取られるかもしれない。
さてこの「ひっくり返し」にあたる「雑草という名の草は無い」という言葉について分解して考えてみると、これは植物学的には真である。名のない草があれば新種として発見されて名をつけられるのだから、理論上この世界に雑草という草は無いのである。
だが雑草という言葉が存在する以上、人々の概念のうちに雑草という草は存在するのである。
雑草という言葉がなければ出来ない思考、漠然とした「名前を知らないがよく見かけるあの草たち」というのを指して思考なり会話なりする、その場合に個々のうちに想起される草の姿かたちは一致しなくても、雑草というイメージを共有できる。
日常のコミュニケーションはそういった曖昧さで成り立つものがほとんどと言える。そういった世界に足を踏み入れたのが、人間なのだ。と思うとき、やはり「雑草という名の草はある」のである。
というようなことをごみ捨て場の往復で考えたりして過ごしている。