『b-lack』が思うように進みません。
セリフはぽんぽこ出るのですが、状況描写が少なすぎて、誰が話しているのかわかりづらくなるありさまで……。
ゆっくり書いていきます。
前回ナイフのチラ裏のようなものを書きましたが、その後の元気になっていった過程を書いておこうと思います。
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まず、前提として『ナイフ』の方に入れた『白百合のキオク』があり、遺された家族を泣かせられんという思いがあります。
3、4歳の頃の記憶ですが、これと引越しの記憶だけが残っています。
高校生になった年の冬に、バイトを始めました。日曜朝のみの新聞配達。
きっかけは、人が辞めてしまい不足した人員を増やしたい、でもすぐに人は来ない。ならば、配達している私の母にくっついていた子供達(私と弟です)はどうだろう?ということで、お声がかかり……今に至ります(現在は毎日、朝夕両方)。今まで貶められ侮辱されて失っていた自信と、必要とされているという存在意義が少しずつ復活していきました。
その後の春の日の夜にこっそり外に出たら、桜が満開で、美しくてでもどこか妖艶な雰囲気があってヘッドホンをしたまま歌ってたら誰かに聞かれていて、拍手されて慌てて逃げました。
びっくりした!(『夜桜の下』)
高校卒業し大学生になった当時、なりきりチャットが流行っていた……のかな?ちょうどパソコンも買ってもらっていたので、遊んでいました。
一応言いますが、留年したのは遊んでいたからではないですよ!!
ここ重要!!
……私がいたところは、ほとんどなりきりの体をなしてなかったようにも思えますが、そこはキニシナイ。
ある子がいきなりボイスチャット始めたのには驚いたけど……。
今ゲームで一緒に遊んでる人に会えたのはあの子のおかげだけども。
しかし、大学一年の後半あたりから、ご飯もろくに食べられず、ついには倒れかける事に。何か食べられそうな物をと、某黄色い箱の栄養素たっぷりクッキーをウーロン茶で流し込みました。病院に行っても異常はなく、大学でも家の人にも「怠けてる」など言われていました。
大学を卒業する少し前に、鬱にかかり半年くらいで復活した母が通っていた診療所に行ったら、軽いうつ病だったのではとの診断。母も私もわーおと。
認めてしまえば少しずつ落ち着いてくるものなのか、食欲が戻り一日三食食べられるように。
これのせいで留年していたけれど、最後の方は夏でもあったのでけっこう元気だったはず!
知りあいに占い師がいますが、会った時に「私は私!」っていう声が聞こえたとか。
あんまり覚えてないけど、切り開くとかそういう感じだった……気がする。
今でも同じぐらいの年の人(主に男性)や大勢の人の前で話すことには抵抗があります。思い出してしまうこともあります。怖いものは怖いので、逃げます。
自分を認めてくれる人、そばにいてもいなくてもいい、心を寄せ合ってくれる誰かがいれば、きっと温かい。私も誰かにそうであれればいいなと思っています。