私は私の出す小説に対して、一定の自信を持っています。自信のない作品を出しているつもりはありません。ですから、私の小説に対する評価と言うのは、ある程度、その程度の如何に関わらず、気にはなるわけです。大半は好意的な評価が占めていますが、一部、そうではないものが散見されるようになったので、それに対する私の意見を発表しようという訳です。というと、私はそういう評価を為される度に言い知れぬ勢いの憎悪と憤怒を覚えるのです。私の全人生が否定され、人格やら何やら全く全部否定され、人権を認めません、そう言っている言われていると感じるのです。何故って、私は私の人生の結晶として作品を出しているからです。
私には或る事件がありました。私は或る日、友人Aに小説を書いていることを打ち明けました。これは別にいいのです。私がやりたくてやったことだし、何より自分の考えを知って欲しかった。それだけなのです。実に自然なことと思います。ですが、そこからが想定外でした。今度はその友人Aがその友人に対して、私が小説を書いていることをばらしたのです。これがいけなかったことと思います。勿論、友人Aに悪意は無かったし、それが齎す効果何て予想も出来ないことだと思います。でも、そんな前提を前にしても、私は怒る訳です。人間は過程が大事と、綺麗ごとのように申しますが、実はみんな結果を先に見るのです。何か事例があったとして、失敗している事例から調べることはあまりない訳です。だから結果が大事、これは私の意見です。だから言わせてもらう。友人Aは悪だった。これをはっきり言っておかなければならない。先ほど述べた通り、友人Aに悪気が無かったのは事実です。あった筈がありません。しかし、結果を重大視する私たち、というか私にとって、件の行為が結果として悪かったということから、悪だと断定される訳であります。では、どうして悪なのか。それが問題と思いますが、大きく言うと、私は友人Aの友人に批判されたのであります。前述の通り、私は他人からの私の小説への評価に対しては、かなり鋭敏な訳です。ですから、今回の批判に対しても私は敏感に反応致しました。批判は凡そ、大変下らない取るに足らないものだったのですが、だからこそ私は憤慨したわけです。私には、同様に小説を書く友人Bというものがありまして、ところで友人Aの友人は私の小説を「友人Bの小説より劣っており、取るに足らず、まるで自分に酔っているかのような表現が散見される」と評した訳です。私はこれを聞いた時、ふつふつと静かな怒りがマグマのように湧きだしてきたのです。意見というか、感想というか、正に「小並感」というか。友人Aの友人(これからは友人A'としましょう)は小説に関しては、勿論彼のことは知らないので実情がどうかは知る由もありませんが、分かっていない訳です。ずぶの素人というか。純文学等に全く手を付けたことの無い、ライトノベルばかり読んでいる様な人間なのです。そんな友人A'が私の文章に対して批判をした訳です。まるで、そうですね、小学校で最も足の遅い児童が、世界陸上の批評をしているかのようです。てんで次元が異なります。阿呆臭いです。勿論、そう思うなら、気にしなければ良いではないか、という意見はある程度、尤もらしいというか、核心を突いているような気さえします。しかし、私が怒っているのはそこではありません。私は意見に怒っているのではなく、態度に怒っているのです。何か、否定することが目標のような、実に悪質な性を感じるのです。何かを否定することで、それによって、自分の存在を補完する。若しくは、否定することで、それ自体、気持ち良い、快感を覚える。そういう生き方が私は気に入らない。私を奴隷に、踏み台にして高みを望むその我儘が気に食わない。自分より他者を下等に見ることで、自分を相対的に高める。自己防衛のつもりでしょうか。そうしないと生きていけないのでしょうか。私はそんな人間にだけはなりたくない。だから、私はここに於いてそのような人種を否定する訳です。勿論、気持ち良くなる為ではありません。こんなこと私はしたくない。でも、私は言わずにいられない。私が道具にされたのですから。許す訳にはいきません。自己陶酔。これも程度の問題はあるにすれ、心の病です。否定して自己陶酔している。若輩者、未熟者によく見られる傾向です。何かと自分より大きなもの、自分の能力ではどうしようもないもの、そういったものに目を付けては論理抜きで、反発するのです。赤子のもつ嫌悪感に似ているかもしれない。
何を言うかではなく、誰が言うかというのが、真理だと覚えて長くなりました。たまにX(旧Twitter)で私は見かけることがある。フォロワー15人くらいの奴が盛んに「あの政党は良くない」だとか、「(タレントの名前)は不倫したから断罪されるべき」だとか私刑を下しているのを。毎回、この手の投稿は無視しています。自分事と思えないから。とてもじゃないけど、構っていられる暇はありません。でもこれが自分の好きな人だと、というかこれでは語弊があるかもしれないですが、取り敢えず、好意的に捉えている人が喋ったこととなると、話は別となる訳です。すると言葉は大いなる意味を孕み始めます。私はそういう類の意見には実に弱い。直ぐ影響されて、傷付いて、人生の方向転換を始めるのです。今回がそれとは言いません。今回の批判は影響どころか、増してや、人生の方向転換何て絵空事な訳です。でもそれは言葉が不連続だから、表現できていないだけなのです。私は幾許かの影響を受けた。これは事実としてある。そういう批判がこの世界に存在していることを認め、諦める契機となった。このことは認めなくてはいけない。悔しいですが、これが現実です。「幾許かの影響を受けた」と書きましたが、もっと言えば、中途半端に影響を受けたのです。私と友人A'の関係が中途半端ですから。だからこそ苛々するのです。認めるまではいかない、かといって無視することもできない。しかもその批判内容が、嫌らしい。この問題について考えると間もなく、惨めになるのです。私はどうしてこんな生産性のないくそどうでもいいことについて考えているのだろう。私の人生の時間がどうしてそんな問題の解決の為に費やされなければならないのでしょう。私の人生は限られている。だから、悠長にしている訳にはいかない。なのに、私は考えざるを得ない状況に立たされている訳です。これほど遣る瀬無いことありますか。私は暫く、人の噂は七十五日と言いますからそれが済むまで忘れずに、考えなければなりません。どうしてですか。私が何をしたというのですか。私は小説を書いただけだ。何でそれで苦しまなければならない。趣味を否定されなくてはならない。人生を否定されなくてはならない。考えられますか。阿呆らしい馬鹿らしい。やめればいいのにやめられない地獄。考えないようにすると、考えてしまう地獄。眠ってる間以外、ずっと考えて気が休まるときがなくて、それが二か月以上続くんでしょう。で、件の批判をした友人A'はのうのうと生きる訳です。こんな不条理がありますか。私はヒット・アンド・アウェイをされたのです。友人A'は私の何もかもを否定し、そしてそのままその理由を告げず、逃げました。とっとことっとこ逃げました。はっきりと私は彼の背中を見た。だんだんと小さくなる背中を見た。
言論の自由というものがあるそうです。どうやらこの国では何を言っても憲法の下、許されるそうです。これって本当でしょうか。本当に許されるのでしょうか。そして私は考えるのです。難しくないからそう長くはかからず結論は出ます。これは嘘です。言論の自由などありません。正しい言葉で表現するなら、「言論の権利」でしょうか。そっちの方が私はしっくりくる。少なくとも誤差は少なくなる。そう思います。実際、そう考えたら結構色んなことが説明付くのです。権利と言えば、有無という概念がある。権利がある人、ない人に分けることが出来る。例えば、国会議員でない人は、国会での発言権が、特別な事情を除き、ない。そういうことです。つまり、言論の自由というのはあくまで建前で、本当は或る領域内での自由ということなのです。
ところで友人A'は小説を書いていません。正確に言うと、書いているかもしれませんが、それを公開していません。つまり私は友人A'を批判することが出来ないということになります。その題材がない訳ですから。逆に言うと、友人A'は失うものがないのです。好き勝手私に対して何のリスクも無く批判することが出来るのです。だからなおのこと苛々するのです。やり返したいのに、その術がない。遣る瀬無いのです。友人A'は安全地帯にいて塀の中にいる私に対して爆弾を投下する訳です。惨いと思うのは私だけでしょうか。友人Bが私を批判するなら分かります。それなら大歓迎です。全て尤もらしいと思います。受け入れます、どんな批判でも。だって私たちは対等ですから。気持ちいいと思います。健全とも思います。しかしA'が批判するのはそれなりに代償が伴うわけです。勿論、批判するなとは言いません。ですが、批判するからにはそれ相応の対価を支払わなければならないのです。例えば、尤もらしい理由とか。まあいざそんなものをA'から浴びせかけられても、むかつくだけでしょうから、多分、他にも理由はあるんでしょうけど。私にも答えは分からないのです。大いに主観が混じっていると思います。ですが、主観を全く取っ払って話をすることなど私には出来ません、というか人間みんな出来ません。だから私は肯定されるのです。私がBを贔屓し、A'を贔屓しないのは(贔屓と言うか、批判を受け入れるか否か)、主観に依るところもあるでしょう、そしてその行為思想は赦される、ということです。しかし、そうすると私もA'の人生を否定しているような感じになってしまうので、言いますが、私は前提として、土俵にいないものが、発言権・発言力のないものが私の批判をするのが気に食わないという論理感情によって動いているので、「否定している感じ」というのは棄却されるのです。
一つ注意してもらいたいのが、私はA'を攻撃している訳ではないということである。きっとこの文章を読んだ方は攻撃していると感じるかもしれませんが、私はあくまで意見しているだけです。A'にとっても、私が薄っぺらい人間であろうでしょうから、この意見が効果を為さないことは目に見えています。つまり私は誰も傷付けていない。傷付ける意図はないことを前提としていますが、意図せず傷付けてしまうこともありますから心配な訳ですが、それは杞憂に終わるのです。