アルスが思い起こしている秀吉の伴天連追放令は信長の政策を引き継いでいた秀吉が九州入りした際に惨状を知って激怒したシーンの背景です。
今度、伴天連ら能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗(キリスト教)繁昌の計賂をめぐらし、すでに河戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮船付くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責かしゃくにもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剝ぎ、坊主も弟子も手つから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のありさま、目前のように相聞え候。
見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女を売り候由、つくづく聞こしめされるるに及び、右の一宗(キリスト教)御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。
然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎なげきおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候。
『九州御動座記』より抜粋
上記のように、かなり酷いものだったそうです。
秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。秀吉が言うには、宣教師が聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら商人ではないか、と。商人は若い人妻を奪って妾とし、……
『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』 より抜粋
宣教師はキリスト教の崇高な教えを説いていたが、教えを守るべきポルトガル商人の所行は酷いものだった。ポルトガル商人が奪ったという若い人妻とは、奴隷身分ではなかったかもしれません。
普通の人々の若妻を略奪したのだから(あるいは金で買ったのか)、女性奴隷は当然同じような目に遭っていたと推測されます。秀吉はポルトガル商人の非道に対して怒りを禁じえず、コエリョに抗議をしました。
このように女性の日本人奴隷は、通常の諸役(農作業、家事労働など)にも駆り出されたが、ときに性的な対象として悲惨な処遇を受けることがありました。多くの女性奴隷は、性的な関係を望まなかったのかもしれません。ただし、中には生活のために止むを得ず、そうした道を選ばざるを得なかった女性がいた可能性もあります。
秀吉はこの状況に驚愕し、キリスト教の布教を許したならば、日本は外道の法(人道に外れた世界)に陥ると憂慮しました。このままだと仏法も王法も捨てざるを得なくなることを懸念し、秀吉は宣教師を日本から追い払うことを決意したのです。これが有名な天正十五年(一五八七)に発布された伴天連追放令です。
そして、これをきっかけとして日本は鎖国へと舵を切るきっかけになります。私が学生の頃、日本は鎖国したからダメだったんだと思っていました。しかし、実際は種子島に来たポルトガル人から鉄砲を2丁購入(記憶が曖昧ですが今のお金で3億円くらい?)して研究した後、1年後には鉄砲の量産体制を作ってしまいました。はっきり言ってとんでもない技術力です。当時の日本は世界一の鉄砲保有数を誇る世界最強の国だったのです。戦国時代以後は世界情勢の情報をもらう代わりにオランダに傭兵を貸し出してます。最強国だから、鎖国が出来たのです。秀吉は外国からの分断工作を止めるための措置として鎖国をしました。奴隷を解放し人身売買を禁止したのです。これは私たちが学校で習った奴隷解放宣言で有名なリンカーンより遥か昔に秀吉が行っていたことです。これらは欧米にとってよほど都合の悪い歴史なのでしょうね。だから、教科書から削除されてるのでしょう。
また、長崎では戦国時代に全ての神社が焼き払われています。もちろん、現在の長崎に神社はありますが、全て江戸時代以降に作られた神社です。戦国時代以前の古い神社はもう残っていません。
余談ですが、当時の日本人が彼らを(南)「蛮人」と呼んでいたのはこうした理由もあります。白人というのも実は蔑称です。素人→白人(しろうと)という使い方をしていました。白い人だから白人という意味ではありません。当時の欧米人はフォークやスプーンも使わず、手掴みで食べ、日本人に対して理不尽な暴力を振るうことが多かったのです。そこから文化的に未成熟な白人(しろうと)と呼び、現在は白人(はくじん)と呼んでいるのです。
こうした事実を歴史の教科書からは無かったことにして、ただ、秀吉が強引に追放したかのように教えているのはおかしな話です。これも、GHQによって昭和22年に国史が禁止された影響なのでしょう。南京大虐殺や従軍慰安婦など、今の社会科歴史というのは、本当に嘘だらけの教科書と言わざるを得ません。