• 歴史・時代・伝奇

史学と文学の境は難しいです。

こんばんは。
最近は西魏の某名将とその兄の伝の読み込みと解釈を進めております。南北朝はやはり楽しい。

んでまあ、
伝の場合は情報が限られますから、解釈も必要になるわけですが、こうなると、史学から文学寄りになってくるんですよね。

なかなか切り分けが難しいのですが、志はともかく、伝のテーマは人間です。人間はすなわちブラックボックス、外的な観察が内的な意図と沿うかと言えば、これは分かりません。

外的観察から個人の内面を推測可能と言う方には、森鴎外『高瀬舟』をオススメします。難しいですよね、人間は。

なんで、外的行為から解釈したところで、それは数多ある解釈の一つであって、決定打にはなり得ないわけです。その範疇はたぶん文学の領域なんだろうなあ、と考えています。

文学者と史学者の議論も、このあたりで一線を引いてしまえば、大半は文学の範疇に入るんじゃないですかね。そしたら、史学者は「それは文学」でバッサリいけるから手間要らずです。

文学寄りの人が興味を持つのは、個人の真意(笑)であって、機構や構造ではないですからね。個人的には、この「真」の字を見た時点でマユツバと感じますが。第三者から「真実」とか語られると、かなり苦手です。

外形的な事実認定なら、史学者の範疇ですし。先学の諸説を知らず、過去に否定された論を蒸し返してしまう過ちはありえますが、そん時は「論文読め」で済みますしね。

そんなワケで、地理とか外形的な事実認定側の人間が個人の解釈をするのは居心地が悪いので、泣き言を言ってみました。難しいよう。

2件のコメント

  • 当時の人間の真意を確定できてしまう人はすごいなぁって思います…
  • こんばんは。
    文学の範疇なら全然アリですよね。ってか、そこが主戦場なわけでして。それを「歴史的事実」と混同するとなかなか難しくなっちゃいます。

    切り分けは大事です。
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する