こんにちは。
『続三国志演義』は公式レビューを頂いて以来、望外に多くの方に興味を持って頂けたようで、大変にありがたいことです。
で。
翻訳してからだいぶ時間が経ちましたので、読み返しつつルビを振っているのですが、翻訳にしてはかなり漢文寄りになっており、読みにくいところも多々あるなあ、と感じておりまして。
翻訳の際は手元に簡体字の原文と読み下しを並べていたので、読みやすくなったなあ(当たり前)と悦に入っておったのですけど、単体で見るとまた感想が変わって参ります。
読みやすさは文体に左右されますので、もう少し試行錯誤しないとダメですね。
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話変わって。
最近、日本史では著名作家の方が通史を出版して歴史研究やさまざまな方面から議論がなされていますね。
批判の中心は、最新の研究成果を踏まえられていないことや出典や参考文献を明らかにしていないことに集中しているようです。
私見ですが、教科書以外の通史というものの位置づけについてイマイチ議論されてこなかったことが、問題に拍車をかけているように感じます。
歴史は史実の蓄積の一方、文化的な統合の物語という側面もありますが、本邦では単一に近い民族構成や歴史的経緯もありまして、こちらの側面はあまり意識されてこなかったかなあ、と。
通史はどちらかと言うと、後者の性質が強くなりますが、そもそも通史がどうあるべきかという議論が不足しているように思います。
そもそも、近年の歴史研究はタコ壷化が進んでおりまして、断代的かつ分野分けされた土俵を中心に行われております。
結果、研究により明らかにされた史実が通史レベルの歴史の流れにどのように影響するかという上位の問題が見えにくい。
だから一般の歴史好きからすると、「それがなんやっちゅーねん」という印象を受けやすくなっているなあ、とか思います。
なんでまあ、歴史学者と一般の歴史好きな人の懸隔はなかなかに大きくなっているのでしょう。それが、歴史が歴史学者の専有物になっている、という誤解を生じているのではないか、と。
歴史学者の方も自身の研究を通史レベルにフィードバックした結果の説明が大事ということは重々承知されているのですが、往時ならともかく、近年の細分化傾向ではそれ自体がけっこうな手間になってしまいます。
現状、歴史学界と一般社会の間には誰か通訳にあたる方を挟まないとなかなか意思疏通が難しくなっているように思いますので、誰か頑張ってみて頂けると、大変によろしいのではないかと感じました。
そういう二重の意味で、教科書以外の通史は誰が書いても批判や非難を浴びる状態にあるんじゃないかな、と愚考した次第であります。