こんばんは。
なんか全般的に忙しい上に進めていた調査がハマって身動きがとれない感じです。
色々遅れていてすみません。
ネタを探して代から一万九百三十里、『続三國志演義』繋がりで匈奴について調べ直していて、悦般という国にズボッとハマってしまいました。
悦般は漢に逐われて西に走った北匈奴の一部が天山北麓の西端に建国したらしいです。実際、北匈奴はさらに西のソグディアナ方面に向かっていますから、『魏書』西域傳では弱い者が残ったとしています。
居残り組ですね。
建国は北魏初期くらいみたい。どうも北族としては文化的だったらしく、悦般王は柔然の未開な有様を見て「狗国」とヘイトスピーチを決め、柔然可汗の大檀が怒ってそれより犬猿の仲になったというオモシロエピソードもあります。
ちなみに、柔然可汗の大檀は北魏の三代目、太武帝拓跋燾と同世代、五世紀前半の人です。太武帝は赫連部すなわち赫連勃勃が建国した夏を滅ぼしております。そういえば、赫連部も匈奴ですね。
柔然という共通の敵がいたので、悦般は北魏とは仲良しだったみたい。援交近郊、じゃなくて遠交近攻というヤツです。
その悦般、『魏書』と『北史』に同文が残るくらいで『隋書』になると西域傳から消えてしまいます。
北魏の正光年間に獅子を洛陽に送ったような記述があるので、それから隋までに滅んでしまったんでしょう。ちょうどこの時期は、柔然から突厥に漠北の支配者が代わる時期でもあり、高車の酋長で東魏の高歓と仲が良かった阿伏至羅も突厥にイタイ目に遭わされています。
悦般の位置から考えると、やはり突厥が西に勢力を拡大したこの時期に消滅したと考えるよりないのかなあ、とか思います。
松田壽男先生は、悦般→エフタルという見解を述べられているようですが、決定的な証拠はないんだろうなあ。代表作『古代天山歴史地理学研究』が全集に入ってないとは思わなかった。。。
天山北麓に悦般国があり、黄河湾曲部=オルドスには匈奴の破落韓部があり、費也頭の万俟部や紇豆陵部も同じく匈奴、ついでに武川鎮の独孤部はすなわち屠各部となると北魏末年の北方における匈奴の勢力はなかなかのものがあります。
というか、六鎮の乱における匈奴の立場を見直さないといけないかも知れませんね。首唱したとされる破落韓抜陵にしても、匈奴の人ですし。
ソグディアナを本拠とするソグド人やアラン人が洛陽まで商売に来て、関中にコロニーを作っていたことを考えると、悦般国とオルドスの匈奴が連絡していても不思議はないわけです。
しかし、北魏末の河北は考慮すべき範囲が広いなあ。。。