こんばんは。
今日は一日、呉座勇一センセの「歴史に学ぶくらいならワンピースを」が話題でしたねー。
未読の方は是非ご一読ください。
いい時代になったものです。
以下は個人の感想ですが、要旨をまとめました。
・原因を限定する陰謀論は因果の単純化に過ぎない
・史料は限定的であり史実の完全な解明は難しい
・不正確な歴史に学ぶな、試行錯誤が常態と知れ
・歴史上の人物も同じ人間ですよ
・物語はフィクションに求めなさい
=安易に歴史を物語化して信奉すると道を間違う
・解釈された歴史「に」学ばず、歴史の解釈法を学べ
こんな感じかなあ。
歴史小説は歴史に取材してフィクションとしての歴史を描くわけですから、物語に他なりません。
しかし、アナール派(歴史学の一派であって怪しいものではありませんが覚えやすい)の言語論的転回=歴史は事実と虚構がないまぜになっている、という主張に与するものとしては、歴史学の行き着く果ては小説に過ぎないとも考えています。
だって、我々は思い出や記録映像を除けば文字からしか過去を知覚し得ないんだから、仕方ないですよねー。テキストとしては、史実も虚構も等価です。評価軸が違うだけ。読み方次第では『資治通鑑』も小説です。
宮崎市定『科挙』、藤田和日郎『うしおととら』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、どれが一番価値がありますか?
そんなん比較すべきじゃないですよねー。作法が違うけど、すべて素晴らしい。
その一方、人物を中心として観る歴史が物語にしかならないのも人間が原因でして、「愛しているからブン殴る」という矛盾は人間にしかないんですよね。
たぶん。
外界から観察可能な事象が必ずしも内面と一致しないのは、人間特有だなあと思います。
サルにはそういうのあるのかな?
知りませんが。
つまり、人間はブラックボックス。
だから、歴史学としての人物研究は成立しない。これは構造的な話であって主張ではないですよ。我々には隣にいる他人様であっても中は見えないのです。
いわんや過去の人物をや。
これは厳然たる事実です。
だって、人間は共感以外に他人に同化する手段がない。でも、その人がヘンタイだったら終わりじゃないですか。
共感さえすっぽ抜けます。
結局、ブラックボックスの中は文学の領域なんじゃないかなあ。少なくとも、隣の人の心の声が聞こえない限りは。人間は我々が考えているより複雑でもあります。だから、興味が尽きないのでしょうね。
なんか、そんなことを考えた一日でした。
問題提起とはありがたいものです。
で。
明日から三作目と言うも愚かな試みを始めてみようかなー、と考えています。歴史を扱いますが、ゆるゆるでやってみます。
さて、どんな感じになりますやら。