• 歴史・時代・伝奇
  • エッセイ・ノンフィクション

章題に関する雑談。

こんばんは。
移動中でヒマなのでちょっと雑談など。

『続三国志』は翻訳ですから原文に拠って書いています。だから、個人的な趣味嗜好は文体や用字くらいにしか滲み出ていないはずであります。

ただ、唯一嗜好が剥き出しになっているのが、実は章題なんですよねー。

『続三国志』
一章 三国時代終わる
二章 流浪する遺臣たち
三章 集結
四章 緒戦
五章 賈后垂簾
六章 崩れゆく安寧
七章 齊王司馬冏の台頭
八章 蜀漢再興
九章 転戦
十章 李特雄飛
十一章 成の建国
十二章 晋漢大戦:闘陣
十三章 晋漢大戦:両道並進
十四章 晋漢大戦:終戦

『続三国志II』
十五章 八王呑噬:齊王司馬冏
十六章 八王呑噬:長沙王司馬乂
十七章 晋漢争覇:山天大畜
十八章 八王呑噬:天地否
十九章 五馬の南渡
二十章 鮮卑慕容部
二十一章 晋漢争覇:天水訟
二十二章 杜弢の乱
二十三章 巨星堕つ
二十四章 残火燃ゆ
二十五章 瓜の如く分かたれ麻の如く乱る
二十六章 (未公開)

一見してお分かりになると思いますが、やはり章題から内容が分かる風のが好みでして、記号的なのはちょっと違うんですよね。

わりと、あそこを読み返したい、とか思って本を開くことが多いので、目次を見てあたりをつけて探すとか、けっこうやります。

なんで、「オマエの章題は統一感がないのう」と言われるかもですが、話のまとまりを考えて章割りし、「この章の要点は何かいのう」と考えて章題をひねり出すは、本作唯一の編集行為かも知れませんね。

六十四卦から引いてくるのはかなりアレでしたが、けっこう楽しんでます。

最後の二十六章で永嘉の乱は終わり。
よって、一章と対応するものになります。

しかし、一時代を通読するというのは、翻訳であっても大変なものですね。
ふー。

あ、8月は偶数日更新に切り替えます。
9月はたぶん3の倍数日更新、かなあ。

12件のコメント

  • こう見ると色々と思い出して、壮観ですね。ついに、ここまでたどり着かれたわけですな。本当に大変だったと思います。

    私も見返す時はタイトルを利用する派なので、「章題から内容が分かる風」の方が好みですね。

    現在、馬場信武さんについて調べているのですが、馬場さんの「通俗続後三国志」の後日刊行として、「通俗東晋軍談 50巻」、「通俗南宋軍談 50巻」、「通俗南斉軍談 20巻」、「通俗大明軍談 20巻」が広告されていたようです。全て未刊のようですが。

    「通俗続三国志」37巻、「通俗続後三国志」前編32巻、「通俗続後三国志」後編25巻であることを考えると、これがいかに壮大な構想だったか分かりますね(笑)

    しかし、「通俗東晋軍談 50巻」ってところを見ると、馬場さんも、三国志後伝の終わり方に不満があったんでしょうね。
  • こんにちは。

    〉壮観

    物量って素晴らしいですね(違う


    〉見返す時はタイトルを利用する派

    巻数とページで記憶するというツワモノもいますが、少数派ですね。果たして電書でも通用しているのかは不明。読書にもさまざまな派閥がありますね。


    〉「通俗東晋軍談 50巻」、「通俗南宋軍談 50巻」、「通俗南斉軍談 20巻」、「通俗大明軍談 20巻」

    野心家ですね。
    しかし、南朝ばっかりなのはやはり南朝正統説の影響なんでしょうね。河北も面白いのに。
    まとまりがないから著しにくいのもあるかな。
    殺伐としてますからね。。。


    〉「通俗東晋軍談 50巻」ってところを見ると、馬場さんも、三国志後伝の終わり方に不満があった

    そうでしょうね。
    蘇峻の乱平定で大円団は唐突に過ぎますから仕方ないです。元ネタは『両晋通俗演義』あたりかなあ。
    『両晋通俗演義』ねえ。。。

    尾田玄古=馬場信武さんですね。洛下儒医を自称されていますから、京都の方なのかな。江戸期の出版文化はそこそこ研究されていますが、書肆と作者を通覧できるような著作は見あたらないですね。

    不調法なので、浅学ゆえかも知れません。
  • >尾田玄古=馬場信武さんですね。
    そうですね。おそらく漢文は河東さんのお話の通り、大したことなかったと思いますが(笑)

    お調べになるなら、長友千代治「近世における通俗軍書の流行と馬場信武、馬場信意」(愛知県立大学説林 (25) )と、
    マティエスハイエク「江戸時代における中国術数・卜占書の流布と馬場信武」の二つの論文が詳しいです。

    我々としては、前者の方が重要ですね。

    この二つの論文によると、馬場信武は、京都で生まれ、天台宗照高院の四代目・道尊法親王に仕え、そこで様々な書物を学び、主君の死後、医者・尾田玄古となったそうです。そこで、講談や卜占書の執筆で忙しかったそうです。先祖は武田信玄に仕えた馬場信房と称していたそうです。また、馬場信武は、本屋を経営していたという説もあります。その活動期間は、元禄・宝永・正徳・享保年間にわたるそうですね。

    主な発行した軍書は当然ながら、「通俗続三国志(撰)」「通俗続後三国志(前編・後編)」ですな。軍書では大した影響は与えなかったかもしれませんが、その卜占書は民間に普及し、大きな影響を与えたそうです。馬場さんの意図としては、中国思想的な卜占の俗解にあり、それは成功したようです。

  • こんばんは。

    〉お調べになるなら

    調べないです(笑
    そちらはまめさんの領域なので、ガチャガチャやっても仕方がありません。


    〉馬場信武は、本屋を経営していたという説

    これは重要ですね。著者=書肆というのはなかなかないです。オモシロい。セルフプロデュースみたいなもんですよね。


    〉その卜占書は民間に普及し、大きな影響を与えた

    ふうん。。。売卜稼業でしたか。国訳には自分でも驚くくらいドライみたいだなあ。
    あまり興味がないみたい。。。むしろ、当時の普及に興味がありますが、こっちは難しそうですね。

    ふーむ、書誌学には興味がないみたいです。翻訳したのに。興味はやはり偏るものかもしれません。
  • >国訳には自分でも驚くくらいドライみたいだなあ。

    そうですか。私も全然興味がなかったわけですが、関連づいた知識ですので、探るのはそれなりに楽しいですね。

    ただ、調べているうちに、中村昂然さんの正体にも近づいた気がします。

    中村昂然さんの事績は、元禄十六年(1703年)発行の馬場信武さんの「初學擲銭抄」の序を仲村昂然という名で元禄十五年に書いたことと、宝永元年(1704)に「通俗続三国志」を刊行したことのみ伝わっているだけのようです。

    通俗二十一史を読むと、中村さんと馬場信武(尾田さん)が同一人物臭いと思っているようですが、河東さんによると漢文力が違いすぎます。
    そうすると別人と考えるのが妥当でしょう。そして、これほどの力量があり、馬場さんにかなり近い位置にあったであろう中村さんが急に執筆をやめるのもおかしな話です。

    と、考えると中村さんの正体は、中村さんの活動停止後、宝永二年(1705)の仲秋に「朝鮮太平記」を刊行した馬場信武の息子・馬場信意ではないかと思えるのです。馬場信意はその後、「北国太平記」、「南朝太平記」、「源氏一統記」など多くの軍書を執筆しています。馬場信意は宝永二年(1705)まで作品はなく、その時は37歳です。

    そうすると、漢文の技術を磨き、独立して軍書を出すための最終試練として「通俗続三国志」の刊行があったのではないでしょうか。

    通俗日本全史では、馬場信意の作品も読めるようですし、もし、同じ人物の作品かどうか、確認されたいなら、ご覧になるのもよいと思います。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001893356-00

    以上、余り興味がないかもしれませんが、以前、少し話題になったことのご報告でした。
  • こんばんは。
    自分ではできないけどお話を聞くのは好きなので、情報は楽しく頂きます。

    〉関連づいた知識ですので、探るのはそれなりに楽しいですね。

    うーむ、研究志向ですねー。羨ましい。
    まめさんがやられているように、書誌学や日本近世史まで関連を見渡して広く眺めるのは苦手なんです。やはり漢文屋なんだなー、と思います。


    〉中村昂然さんの正体

    これは興味深い。
    中村さんと尾田さんは一緒に輪読会をやったようなものですから、親しみを感じます(笑


    〉通俗二十一史を読むと、中村さんと馬場信武(尾田さん)が同一人物臭いと思っている

    たしかに、『續三國志』の前説にそんなことが書いてありましたが、否定的に見ています。


    〉漢文力が違いすぎます。

    白話に近い部分の翻訳は中村さんが上です。これが理由の一つ。
    次に、『續後三國志』の序に尾田さんが中村さんの『續三國志』の校訂に与ったと明記しており、中村さん=尾田さんなら一人芝居になります。そんな必要もないですよね。
    だから、別人説をとりたいです。


    〉馬場信武の息子・馬場信意ではないかと思える

    なるほど、中村さんが姿を消し、入れ替わりに馬場信意さんが登場するわけですね。当時は筆名を複数持つ方が多かったので不思議はなく、かつ、父親の尾田さんが校訂に参加したのも当然です。

    筋がイイ推論ですね。これはオモシロイ。

    惜しむらくは確証を得るのが難しいところでしょうか。大学院生なら、中村さん作品と馬場信意さんの翻訳作品を形態素解析して比較することを勧めますかね。用字を比較して類似性を検出できるかも知れません。
    注意喚起するにはここまでの整理で十分ですし、形態素解析までやるとガチ研究なんで、そこまで踏み込む必要はないと思います。

    もしかすると、300年を経て馬場さん親子と輪読会をしていたと考えると、感慨深いですね。


    〉通俗日本全史

    チラッと拝見しましたが、和漢は古い型の漢文を踏襲していますから、読み下しを比較しても分かりません。馬場父子のどちらも綺麗に読み下すはずです。

    明清小説のように日常会話に近い白話文になると、読み下しも人によりけり、千差万別になります。

    そもそもが文語文ではありませんから読み下すのが難しいというのは、氷月さんが『襄陽守城録』で苦労されていたところからお察しの通りかと思います。

    アレはムリっす。
  • 馬場信武さんのwikipedia項目を作成しました。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/馬場信武

    これにより、日本での翻訳の刊行が、

    通俗続三国志 1704年
    通俗続後三国志前編 1712年
    通俗続後三国志後編 1718年

    と、期間があることが判明しました。

    物語支那史体系は、あくまで通俗続後三国志前編の広告が、後編が来年秋刊行とあるため、誤認してしまったようです。

    想像を逞しくすれば、三国志後伝を読んだ尾田さん(馬場信武)は、語る仲間が欲しくて仕方ないので、修行中の中村さん(馬場信意?)に読ませました。

    満足した尾田さんは、もっと仲間が欲しくなり、自分の書店を利用して、中村さんに書きかけの軍書の出版を交換条件に持ち掛け、三国志後伝の翻訳を依頼することにしました。

    三国志後伝は初めが分かりづらいので、中村さんなりに工夫して翻訳します。前半だけでいいと言われていた中村さんは翻訳を終え、自分の作品出版に専念します。

    後に、近世最大の通俗軍書作家といわれる信意さんの作品は好調で、通俗続三国志より売れました。そのため、信意さんが続きを書いてくれることはなく、信武さんは続きを求める声と、本人の心残りに悩まされました。

    そのため、書きたい易学の翻訳を終えた後、尾田さんは六年がかりで三国志後伝の後半を訳します。しかし、白話文がうまく訳せず、不満足ながら、やっと前編という形で出すことにしました。

    信武さんはその間に翻訳したい易学書を見つけ、また、その翻訳に力をいれます。しかし、やはり三国志後伝の残りの翻訳ができていないところが心残り。資治通鑑や晋書を読みながら、じっくりと翻訳し続けます。そこでやっと、さらに六年後に翻訳を出しました。

    高齢の信武さんは、これで精も根も尽き、これが最後の作品となってしまします。後世、誰かが見つけ、内容を楽しんでくれることを祈りながら。

    全て妄想ですが、自分が想像したのはこんな様子です。この想像が幾分かでも当たっていれば、馬場信武=尾田玄古さんは、三国志後伝の育ての親と言っていい存在と思われます。

    河東さんが八卦から章題を取ったのも運命的な何かを感じますね。
  • こんばんは。
    やはり調査に専心されていましたか。

    〉馬場信武さんのwikipedia項目

    拝見しました。おつかれさまでした。
    著述家なので資料はありそうですが、これだけ詳しく掘れるものなんですね。

    易学の方では通俗的なため、俗解と評されていると聞いた記憶があります。

    〉通俗続三国志 1704年
    〉通俗続後三国志前編 1712年
    〉通俗続後三国志後編 1718年

    実に14年をかけていますね。8年でもたいがいだと思いましたが、宿題を多数抱えていたんでしょう。

    むしろ、それだけの期間をかけてでも訳し通した根性というか、執念を褒めるべきですね。


    〉想像を逞しくすれば、

    珍しい(笑

    しかし、14年をかけて翻訳したわけで、背景にはそれなりに事情があったのでしょうし、あながち妄想とも片づけられません。

    中村昂然さん=馬場信意さんであるなら、惜しむらくは有能過ぎましたね。もう少し無能なら、習作として全編を訳してくれたかも知れません。


    〉馬場信武=尾田玄古さんは、三国志後伝の育ての親と言っていい存在

    それだけは間違いないですね。『通俗續三國志』に校訂で参加していたということは、確実に出版にも関係していたでしょう。

    彼の執念が邦訳の根となったことだけは確かです。

    ドラマですねえ。
  • >やはり調査に専心されていましたか。

    それもありますが、コメントの追伸のお返事がなかったので、お忙しいので完成のご報告までは待とうと思った次第です。追伸の場合は、二日ほどお返事がなければ、次のコメントに行くという暗黙の了解がありますが、今回だけは特別で。通俗続三国志の調査はネットで原書を確認できますので大体、終わりですね。

    https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=idl&bib=200014681

    後は、国会図書館のこれを確認するかどうかですね。これだけ未確認です。
    https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I024007245-00


    残りは原書がどこにあるか調査をかけるぐらいですが、これは難しいので今回のまとめには含めません。

    >著述家なので資料はありそうですが、
    >これだけ詳しく掘れるものなんですね。

    これでも本屋関係の分は削りました。長友先生の調査はさすがですね。見習いたいです。関連がある可能性があるので、馬場信意も作成しました。論文をまとめただけとはいえ、ネットへのアプローチとしては良かったと思います。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/馬場信意

    漢文や小説家としての能力は中村さんが上でしょうが、三国志後伝愛としては、ある意味原作レイプとも言われる翻案度合いが少ない尾田さんに軍配があると思われます。

    自分としては少なくとも中村さんの遺志を尾田さんが引き継いだよりも納得できる解釈ではないかなと思ってますね。

    しかし、近世最大の軍書書きが、自分が好きでもないのに翻訳してくれたとしたら、三国志後伝は本当に運に恵まれてますね。
  • こんばんは。

    〉コメントの追伸のお返事がなかった

    あー、「第八十回 石勒は三台の城を奪い取る」の石虎暴君懐疑論に頂いたコメントですね。

    指摘を頂いた田村実造『中國史上の民族移動期』を読み返して納得し、「もしかしたら北朝好きはこの本の影響かなあ」と遠くを眺めて満足してました。アレはよい本です。

    ハマると目的を忘れる悪癖がまた。。。大変失礼いたしました。


    〉通俗続三国志の調査はネットで原書を確認できますので大体、終わりですね。

    おつかれさまでした。
    しかし、意外に早稲田大学のほかからも刊行されているものですね。

    ふうむ。。。


    〉原作レイプ

    国訳は祖述に徹する傾向があるように思います。訓読がベースだから、超解釈や飛躍はないんですね。

    『三國志後傳』の前半は珍しいパターンだと思いました。中村さんなりに理由があるんでしょうけど、仰る通り、尾田さんは省略はあっても改変はほぼなし。実に忠実。

    たぶん好きだったんでしょう。


    〉馬場信意

    こちらも拝見しました。
    国史のイメージが強いですが、さまざまに執筆されているのですね。しかし、庶民向けの通俗軍談ですから新しい知見と言われてもなあ。。。進歩ばかりが大事ではありますまいに。

    学者はこれだからもう。。。(言いがかり)


    『続三国志II』の翻訳はだいたい終わったので、西晋滅亡までを淡々と終わらせつつ、読み直し&手直しを進めていきます。

    ついでに、またヘンチクなことをはじめました。

    読史の断片録
    https://kakuyomu.jp/works/1177354054886601201

    三国時代と晋初は『資治通鑑』を通読したくらいで詳しくないので、合わせて勉強してみようかな、と。手直しでどうせ読みますでしょうし。

    中村さんは正史と引きくらべるな、と仰ってましたが、やっぱりやりたくなりますよね。。。
  • >アレはよい本です。

    内田吟風「北アジア史研究」とともにバイブル感はありますね。

    劉淵の出自ですが、唐長孺先生の学説は、なにやか疑古派的なものを感じさせ、魏書すら疑っていない劉淵の出自を疑い、結局、何を信じればいいか分からない自縄自縛に陥っている感じがします。現代、中国戦国時代の文献が出土し、疑古派の考えはただ学会を振り回しただけでした。私としては、内田先生や田村先生を根本とするべきで、唐長孺先生の学説は、それを証明する史料がでてこない限り、「出来のいい陰謀論」で終わるものと考えております。

    >庶民向けの通俗軍談ですから新しい知見と言われてもなあ。。。
    >進歩ばかりが大事ではありますまいに。

    長友先生は昔の学者さんですから、事実だけを述べるのではなく、全体的な大きな感想まで述べる傾向にありますね。正しいかどうかはともかく、この時代の学者さんの論文の方が読んでいる方は面白いですが。

    馬場信意の制作方針を聞くと、何やら、司馬史観の起源はここらへんにありそうな感じがしますな(笑)

    >読史の断片録
    >https://kakuyomu.jp/works/1177354054886601201

    お読みしました。フォローしておきます。いずれ、コメントもする予定です。慕容恪についての私のまとめにも述べました通り、この時代の歴史は、資治通鑑も参照できた方がいいのですが、手軽にネットで検索できるものがないのが残念ですね。

    後、その時の軍事代表者が勝ったから、強い(軍事能力が高い)って評価になる、ネット全体に見られる風潮はどうかな、と。無能ではないという意見なら分かりますが。慕容恪のこともそうですが、余り人物評価に拘ると、全体的な理解から外れていくような感じがします。
  • こんにちは。

    〉唐長孺先生の学説

    これ、そもそもは岡崎文夫『魏晋南北朝通史』で指摘されていたそうですね。劉淵の父の劉豹の活動期間が長すぎる点には確かに疑義を感じます。

    しかし、それを埋める史料がない。

    あり得ないことはあり得ないわけで、史料に誤りが混じっているんだと思いますが、なんなんでしょうね。

    指摘に止まったことは残念でした。


    〉事実だけを述べるのではなく、全体的な大きな感想まで述べる傾向

    そういえば、昔の学問は天下国家の話に繋がってナンボなところがありました。司馬史観も個人的経験と合わせて濃厚に影響を受けていると思います。


    〉資治通鑑

    通読にはいいんですけどね。探すのがなかなか面倒です。参照するなら記事本末の方が便利なのかな。人にフォーカスするならその限りではないかあ。


    〉その時の軍事代表者が勝ったから、強い(軍事能力が高い)って評価になる、ネット全体に見られる風潮はどうかな、と。

    それ、たぶん解決されないと思います。

    「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というくらいですから、勝ちから優劣を測るのは難しいです。相手がパーという可能性もあるわけですから。

    ちゃんと戦史を学べば評価できるかと言えば、それもおそらく成立しない。

    古代史の戦争では兵員数は誇大広告気味ですし、命令系統や兵の所属も不明、輜重や兵站さえ明らかではないため、研究そのものが困難なはずです。

    だから、正しい評価そのものがないんでしょうね。

    古代における戦史の評価については、すべてが単純評価と同じくマユツバだと思った方が安全だと思っています。

    戦史は、非常に難しい。。。


    〉余り人物評価に拘ると、全体的な理解から外れていく

    歴史研究ならば然りです。

    全体理解は歴史研究の基本にして目的ですが、やればやるほど複雑怪奇で単純化とは逆方向に向かいます。

    つまり、一般的な認識「誰誰の時代」からすると、のっぺらぼう化していくことになる。

    だから、「人物による単純化=分かりやすさ」と「時代全体の理解=正しさ」はバーターの関係にあるのでしょう。

    ただ、人物は時代を理解するための把手のようなものでもあり、万人向けの入口として有効です。

    大多数は前者で満足し、一部の人が後者に進む。

    学部や院の専攻なら正しさ一択ですが、その外で何を求めるかは人それぞれです。

    一概にどうするのがベターとは言えないです。
    個人的にはそのように考えております。
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する