こんばんは。
『続三国志II』は昨日アップの90回で『二十四章 残火燃ゆ』は終わり、次回から25章に入ります。残りちょうど25回になりました。
翻訳はガシガシ進めて8月分もまあ終わり、9月24日で完結するべくストックを増やさねばなりません。
ちなみに、9月24日は『続三国志』の公開を開始した一周忌にあたります。南無南無。
なお、今回の近況が長い理由は、読めない箇所を投げ出してこちらに逃げたからです。
▼悩む。
スゴイ好きな時代がテーマだけどガッツリ某方面に寄るであろうと推測されるアンビバレンツな作品が投下されていて、フォローしてひと思いにそっち側にいくか、身を慎んでスルーするかが難しいところです。
とある北朝のアイドル丞相。
ほしみやあかり
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886521301史書に忠実な上に文章は読みやすいし、大変によろしいのですが、属性としてそっち側は不調法なので逆の意味でコワイなあ。。。罷り間違って滅多なことになっては色々と具合がよろしくございません。
しばらく様子見をしつつ陰ながら応援したいと思います。意図して全体的に意味不明にしていますので、ご興味の向きはご一読下さいね。
宇文黒獺。
▼『高僧伝』を読む。
岩波文庫に入ってる酒井忠夫・船山徹『高僧伝』がオモシロいです。つっても、説話的にオモシロいのではなく、東西交渉史的にオモシロいというハナシです。
とはいえ、武帝蕭衍治下の梁の時代に慧皎が著したものですから、覇史を仏教側から見た感じにもなります。収録されている時代は後漢から梁、興味がある方もいらっしゃるかも知れませんね。
なんでそんなもんを読むのかというと、別に悟りたいとか思っているわけではなく、当時を知るためにそこから遡れるか、という一事に尽きます。五胡世界の記録として貴重&南北朝時代の一側面としても、やはり貴重なのです。
史料が少ないですからねえ。。。
しかし、スゴイ労作。。。先人に感謝。
▼歴史小説を考察する。
歴史好きは小説で作られる。とまでは言いませんけど、それに近い何かはあるのではなかろうか、というお話です。
「原書と論文だけで楽しいから小説化は不要」というのは片手落ちの論で、キャラ萌えだろうがビジネス書だろうが、どこかに展開して初めて広く親しまれるものでございます。
IFを設定するなら、吉川英治と横山光輝なくして三国志は今ほどメジャーであったか?と考えると、二人の偉大さ&歴史小説が果たす役割が伝わるのではないかと。
何より三国志コラができないじゃないですか。
現実に帰りますと、漢籍の有名どころなら『孫子』や『論語』、原文を読まれた方が何人おられますことやら。原書を読む人は目測する限り、九牛の二毛くらいなんじゃないかなあ。
少なくはないですが、一般的と言うほどのボリュームはないのが実情ではないか、と。お楽しみは様々でございます。原書に触れるのはよいご趣味でありますが、原書読み 〉小説読みとはなりません。
そもそも、読書において、事実 〉創作も成立しませんしね。そんならノンフィクションやルポルタージュが一番エライって話になります。
そういうお話はあまり耳にしません。
無論、これは優劣の前にノンフィクションやルポルタージュの価値と小説などフィクションの価値は評価軸が違うというお話です。同じく、研究成果としての論文と創作としての歴史小説も同列に並べられるものではありません。
司馬遼太郎さんの例を見て思うに、歴史の大勢は物語化されることにより一般化し、研究の整理が進むことにより創作や現実との違いが明らかにされていくのかなとも思いますが、偉大に過ぎるので特殊例のような気もします。
一時代を一般に知らしめるほどの作家さんや作品が出ると、そういうことも起こるのかも知れませんね。
▼森見登美彦さん作品を読む。
脳がオーバーヒート状態でしたので、「読み味が軽くてライトでひたすら楽しいだけの小説が読みたい」と要望した知人の紹介により『有頂天家族』を読んだらドハマりしました。未読だったもので。
『有頂天家族』
『有頂天家族・二代目の帰朝』
『ペンギン・ハイウェイ』
『四畳半神話大系』
『夜は短し歩けよ乙女』
『四畳半王国見聞録』
『聖なる怠け者の冒険』
2週間でこれだけ読んだのは久々です。脳が関西的というか、近畿地方的なバカ気を求めていたのかも知れません。
文庫の小説は『太陽の塔』『宵山万華鏡』『きつねのはなし』『恋文の技術』が残っていますから、もう少し楽しめますね。