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あゝ自転車操業。

こんばんは。

2月も後半、だんだんと暖かくなって春の訪れを感じる今日この頃、卒業や異動のシーズンが近づいて参りました。受験期でもありますよね。

『續三國志II』は早くも四十回13万字を超えて全体の三分の一を過ぎた感じです。元旦からなのでかなり早いじゃん!6月には終わるんじゃね?とか思っていましたが、好事魔多しと申します。

「来週から四月半ばまで、翻訳のためのまとまった時間がほとんど取れません」

ガーン。
まあそりゃそうか。3月とか、色々とやらなくてはならんこと多数ですからね。4月は4月で忙しいですし。毎週末は家に籠って翻訳というわけにも参りません。

とりあえず、なるたけ(=なるべく、方言?)翻訳は進めて終わり次第に更新する方針は変わりないのですが、これまでみたく一週間分をストックとかは難しくなります。

そんなわけで、わりとほぼ日刊更新だった『續三國志II』は十九章から不定期更新になります。
誠に申し訳ありませんが、ご海容のほど、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

6件のコメント

  • そういう事情なのですね。じっくりとお待ちすることにします。これだけの早さで更新していたこと自体が驚異的ですよ。

    三国与太話でお薦めのあった金文京「『三国志平話』の結末についての試論」を読みました。

    内容は平話のラストを劉淵が漢王朝の再興を行ったところで終わらせたことについてに関してでした。

    平話が生まれた元代において王朝の正統論が漢人の希望により、北宋→南宋→元とする考えが強くなり、これが蜀漢正統論と密接な関係を持っていたことでした。蜀漢が正統なら、南宋が正統となる理屈が立ちやすくなるからです。

    そのため、匈奴の劉淵が蜀漢の正統を継げるなら、元も南宋の正統を継ぐことができるわけです。

    ですが、明代に書かれた三国志演義は、漢王朝の復興としては好ましいわけですが、明が元を打倒してできた王朝である以上、この結末は受け入れられなかったとのことです。

    三国与太話の管理人のにゃもさんは、これは三国志後伝にも援用でき、明代に生まれた三国志後伝がなぜ、洗練される機会を失ったかの理由になるだろうと考えたのだろうと思われます。

    このガジェット通信の下段の元ネタもこれのようですね。
    http://getnews.jp/archives/572151

    ただ、残念ながら、三国志後伝と直接指定しているわけではないので、wikipediaには含めませんが、興味深い内容でありました。
  • こんにちは。
    ご教示ありがとうございます。なかなかに興味深いです。

    〉金文京「『三国志平話』の結末についての試論」

    文学史の範疇になるわけですね。


    〉平話のラストを劉淵が漢王朝の再興を行ったところで終わらせた

    ふうむ。


    〉元代において王朝の正統論が漢人の希望により、北宋→南宋→元とする考えが強くなり、

    知識人が元に支配される現実を合理化しようとしたんでしょうけど、「漢人の希望」というところの闇が深いですね。
    「力こそパワー」と割り切ればいいようなものですが、儒教的名分論に縛られている限り、正統を奉じていることにするか、否定して戦うかしか道がありません。元を正統とすることにより、葛藤を合理化したわけですね。
    儒教というか、名分論の桎梏を感じます。


    〉蜀漢が正統なら、南宋が正統となる理屈が立ちやすくなる

    どうなんでしょうね、金文京さんの議論には穴が多い気がしました。

    蜀漢正統論って、正統論では傍流も傍流ですよね。献帝から禅譲された魏が正統なんですから。献帝を否定するならアレですけど、まともな史論では蜀漢正統論は成り立たないはずです。
    むしろ、魏から晋、その晋の東遷があっても正統は東晋、それより南朝に保たれた正朔が南下して併呑した隋に移る、という経緯の方が状況が近いし、元の正統を擁護しやすいんじゃないかなあ。

    しかも、南北朝期には東晋を継いだ南朝が正朔の所在とされており、蜀漢を持ち出さなくても、東晋が正統なら南宋も正統、は成立するはずなんですよね。北魏末ですら、士大夫はみな南を向いて蕭衍を奉じておる、と爾朱榮閣下はお怒りでした。

    あえて蜀漢正統論にこだわらなくても、元の正統を擁護できるんだから、平話の結末と元の正統論の絡みは付会のように思います。

    そういえば、氷月さんの『超訳襄陽』で南宋から見た東晋や南北朝についてすこし話しましたが、南宋にとって東晋含む六朝は状況が酷似しますから、士大夫は典故を探して晋書などをよく読んだんじゃないかな、と思いつきを話しておりました。たぶん当時の士大夫は南北朝には詳しかったに違いない、という妄想ですね。でも、士大夫の習性から考えて、あながち外れてはいないと考えています。


    〉匈奴の劉淵が蜀漢の正統を継げるなら、元も南宋の正統を継ぐことができるわけです。

    うーん、金さん苦しいなあ。鮮卑の隋唐は正統だろ、で済む話ですし、小説は史実じゃないし。小説に書いたところでどうなんだろう。。。当時の講談や小説が輿論形成にどれだけ作用したか、というあたりがキモになるのかなあ。


    〉明が元を打倒してできた王朝である以上、この結末は受け入れられなかった

    明は元を正統としないなら、その通りですね。

    なんとなく、元代の人には蒙漢一体の願望があり、その投影の一つが劉淵を蜀漢の連枝として描いた平話の結末である、というあたりがオチなんじゃないですかね。
    なぜそのように描かれたかに正統論を絡めると逆に分かりにくくなりそう。ただ、明代に平話の結末が行われなくなったのは、元を正統とはできない明の正統論の影響による、というのは、然りかもしれません。時代の潮目が変わり、蒙漢一体が禁忌になっちゃったわけですからね。


    〉明代に生まれた三国志後伝がなぜ、洗練される機会を失ったかの理由になる

    だから、この推測は的を射ているかもしれません。
    専門外なのでアレですが。
    とても興味深い議論でした。勉強になります。南宋の名分論や元代明代の知識があると、さらに面白いんでしょうけど、高望みはいけませんね。
  • 河東さんすごいですね! 学者の発言だからと言って鵜呑みにせずに、はるかに納得できるほど理論立てて反論できるとは。

    おっしゃる通り、金文京先生は、文学から来ている関係かその著書を見ても、蜀漢をなにかと低評価すると同時に、蜀漢正統論にこだわっています。なぜ、蜀漢を低評価するのに、蜀漢正統論にこだわるかと言うと、『蜀漢正統論があるから、蜀漢は史実よりも過大評価された』という理屈に持って行けるからです。そのため、三国志演義や平話などの小説すら持ってきてその理論を補強していると思われます。(似たような言説に、陳寿は蜀漢出身だから、蜀漢を史実よりも持ち上げている、という言説があります。実際は陳寿は晋を正統と考えています)

    正統論というのは後世から考えてもどこまで本気で信じられたか怪しい感じですね。本気で気にしたのは漢王朝を嗣ぐ理屈が欲しい光武帝と、統一できないので正統性が主張できないことに悩んだ三国ぐらいかなと思っています。

    >なんとなく、元代の人には蒙漢一体の願望があり、
    >その投影の一つが劉淵を蜀漢の連枝として描いた平話の結末である、>というあたりがオチなんじゃないですかね。

    私もそう思います。ただ、明の時代に元を否定的にとらえるのはともかく、その正統性を否定までしていたかは不勉強で分からないのですが、
    どちらにせよ、小説なので正統論とはあまり関係なさそうです。

    どうやら、ガジェット通信の松平俊介さんの理屈ぐらいの方が無難そうですね。

    私も考える参考になりましたが、金文京先生の言説は過去の蜀漢低評価につなげる理屈を探すような態度も考慮にいれると、賛同できませんね。
  • こんにちは。

    〉理論立てて反論できるとは。

    史料の裏付けをとっていませんから、憶測です。しかし、ちゃんとした学説はそれも容れないものですから、立論がガバいのだと思います。


    〉『蜀漢正統論があるから、蜀漢は史実よりも過大評価された』

    という先入観というか、一種の予断による立論なわけですね。議論としては面白いですが、あまり生産的ではないかもしれませんね。


    〉正統論

    厄介な点は、王朝の配当により色が決められており、それが儀礼と密接に関わっていたところですかね。この面で正統論というか、五行の配当は実務に関わっています。だから、軽視できたとは言い難いかもしれませんよ。少なくとも、礼楽の官にあった人は翻弄されたと思います。


    〉正統性を否定までしていたか

    唐以降は不調法なもので、特に役立つ情報はなさげですが、あまりパッとした結論にはならなさそうですね。金さんの立論は思考実験として面白いと思います。
  • 立論がガバいのは、文学から史学を語る方に多いですな。高島俊男先生、渡辺精一先生とか。大胆な分、分かりやすいところはありますが。

    歴史を勉強するに、雑誌ライター<歴史小説家<文学出身の歴史学者、という3つの壁があるイメージがあります。

    金先生の思考は、史学を語るのにいかに蜀漢が劣っているかを強調する論理展開です。演義との違いを強調して、いつしかそれが目的となったのでしょう。蜀漢と比較して(曹魏ではなく)孫呉を持ち上げれば、持ち味になりますから。

    分かりやすいですが、大雑把ですし、一般書をお書きになっている以上、個人的にはネットにいる蜀漢アンチや三国志演義叩きに理論を提供している感じで、あまり感心しませんね。

    三国志後伝に関しては書かれた理由は、蜀漢正統論とは関係なく、ただ単に酉陽野史の前書き通りだと思います(笑)
  • こんばんは。

    〉大胆な分、分かりやすい

    単純化すると分かりやすくなりますね。ただ、度を過ぎると見誤るので要注意ではあります。


    〉雑誌ライター<歴史小説家<文学出身の歴史学者

    それぞれに求められるものが違いますから、仕方ありませんね。


    〉蜀漢と比較して(曹魏ではなく)孫呉を持ち上げれば、持ち味になりますから。

    学者も仕事ですし、若いうちは職を得るためにブチ上げないとダメ、というところもあります。
    いいか悪いかというより、そうでもしないと新しい切り口の研究にならない、という切実な事情があるでしょうね。
    特に史料中心の研究は厳しくなっています。どこに行っても先達がおられる状態ですから。


    〉個人的にはネットにいる蜀漢アンチや三国志演義叩きに理論を提供している感じで、あまり感心しませんね。

    盛り上がるための燃料投下なら、それもありかも知れません。歴史は解釈の学問という側面もありますし。史実をないがしろにするのはよくないですけど、そこを押さえていれば立論は自由ですから。迷惑にならない限りは、それぞれに楽しむのがよいと思います。


    〉酉陽野史の前書き通り

    自己申告に勝るものはありませんね(笑)
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