シートン動物戦記における獣人差別の根幹の一つである。人間が、獣人相手に何かを教えている。ところが相手はいつまでたってもできない。教える側は次第に苛立ち、声が硬くなる。悪意があるわけではない。ただ、わからないのだ。なぜできないのかが。で、最後に行きつくところがあの種族は使えないであり、差別である。
この苛立ちには、実は三つの層がある。
一つめは「知識の呪い」。人は一度何かを知ってしまうと、知らなかった頃の自分を思い出せなくなる。熟達した者にとって、手順は呼吸のように無意識だ。呼吸の仕方を教えろと言われたら、誰でも困る。教える側は「簡単だ」と言うが、それは簡単なのではなく、簡単に感じるほど身体に染みついているだけなのだ。
二つめは「基本的な帰属の誤り」。相手ができないとき、私たちは状況よりも本人の性質を疑う。経験が違う、体の作りが違う、見えている世界が違う。そういう可能性は後回しにされ、「怠けている」「やる気がない」という結論に飛びつく。ここで苛立ちは、叱責へと姿を変える。
三つめは、もっと厄介な感情の層だ。「自分はできた」という事実が、いつのまにか「できない者は劣っている」という優越感に変わる。生存者バイアスと呼ばれるこの錯覚は、自分が通り抜けた道だけを唯一の道と信じさせる。違う種族なら、そもそも道の形が違うかもしれないのに。
種族が違うという設定は、この問題を極限まで拡大して見せる装置である。人間同士なら「努力の差」で片づけられる違いが、種族の違いなら「根本的な構造の違い」として否応なく現れるからだ。それでも登場人物は、すぐには気づけない。自分の「当たり前」が、相手の「当たり前」ではないという事実は、頭でわかっても腹に落ちるまで時間がかかる。
だからこそ、この設定は物語として面白い。苛立つ者は、相手を理解できない自分に苛立っているのだと、いつか気づく瞬間が来る。その気づきこそが、二人の関係を一歩前へ進める。
小説の中でこの現象を指す言葉を探すなら、学術用語としては「知識の呪い」が最も近い。ただ、文芸的には「自分の当たり前に閉じ込められる」と書いたほうが、読者の胸には届くのかもしれない。