企画とは何かと何かの足し算、あるいは掛け算である。この言い回しを一度も耳にしたことのない企画職はおそらくいないだろう。だが、この比喩がどこから来て、なぜこれほど広く流通しているのかを立ち止まって考える者は少ない。実のところ、この一行の背後には、広告業から経済学、さらには詩歌の技法にまで及ぶ、意外に厚みのある系譜が横たわっている。
原典としてのヤング
この比喩の最も直接的な起源は、ジェームズ・W・ヤングが1940年に著した小冊子『アイデアのつくり方』に求められる。ヤングはそこで、アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないと言い切った。重要なのは、彼がこの定義を天才の特権としてではなく、訓練可能な技術として提示した点である。素材を集め、それらを寝かせ、無関係に見える要素同士を強引に接続させる。企画とは霊感の産物ではなく、既存の部品棚から二つを選んで組み立てる工程だという発想は、ここに端を発している。
経済学からの補強――新結合
同じ発想を、ヤングよりも早く、しかも別の文脈で定式化していたのがヨーゼフ・シュンペーターである。彼は経済発展の本質を「新結合」(neue Kombination)という語で説明した。新しい技術、新しい市場、新しい原料調達先、新しい組織形態――これらは多くの場合、まったくのゼロから生まれるのではなく、既にある要素の未知の組み合わせとして現れる。イノベーションとは発明そのものではなく、結合の仕方の発明である、というこの視点は、企画論における「足し算」の思想的な裏付けとして機能する。ヤングの言葉が実務家向けの経験則だとすれば、シュンペーターのそれは同じ現象を経済理論の側から捉え直したものだと言える。
東洋的な変奏――換骨奪胎
一方、日本語には同種の発想を独自の比喩で表現してきた歴史がある。換骨奪胎という四字熟語は、もともと詩文の技法を指す言葉で、先人の作品の骨格――構造や発想の型――をそのまま借り、そこに新しい言葉や意匠を盛り込むことで別の作品として成立させる手法を意味した。これは足し算というより、型と中身を分離してから中身だけを差し替えるという操作に近い。既存のフレームワークに新しい素材を流し込むという発想は、リブートやスピンオフ、あるいは既存IPの世界観を借りた新規展開といった、現代のメディアミックス企画の実務そのものである。
実務の公式――王道×意外性
エンターテインメント業界では、これがさらに実践的な公式へと磨き上げられている。「王道×意外性」という言い方がそれで、観客がすでに知っている型――王道――を土台にしつつ、そこに一つだけ予想外の要素を掛け合わせることでヒットが生まれる、という経験則である。ここで注目すべきは「×」という記号の選ばれ方である。足し算ではなく掛け算だと表現されるのは、王道の強度と意外性の強度が互いを増幅し合う、という直感が働いているからだろう。要素を並べるだけの足し算と、要素同士が化学反応を起こす掛け算は、似て非なる操作なのである。
詩歌の技法――二物衝突
この掛け算的な発想は、実務の世界に限らず、はるかに古い創作技法としても存在していた。俳句における二物衝突がそれである。一見何の関係もない二つのイメージや事物を一句の中に並置し、その間に生じる緊張や飛躍から詩的な効果を引き出す技法で、季語と情景、あるいは全く異質な二つの名詞を衝突させることで、単独では生まれない意味の火花を発生させる。企画における「掛け算」が、実は俳句という極めて凝縮された形式の中で、何百年も前から言語化されていたことになる。
足し算と掛け算の違い
こうして並べてみると、これらの言葉は同じことを言っているようでいて、微妙に異なる操作を指し示していることが見えてくる。ヤングの「組み合わせ」やシュンペーターの「新結合」は、比較的中立的に――足すのか掛けるのかを特定せずに――要素同士の接続を語る。対して換骨奪胎は、型と中身という非対称な二項の分離と再構成を語り、王道×意外性と二物衝突は、掛け算特有の増幅効果、すなわち要素同士が単純な合計を超えた効果を生む瞬間に焦点を当てている。企画を立てる際に「これは何と何の足し算か」と問うのと、「これは何と何の掛け算か」と問うのとでは、実は要求される作業が違う。足し算は要素の選定と配分の問題であり、掛け算は要素同士の相性と増幅点の発見の問題である。
結び
企画とは何かと何かの組み合わせである、という物言いは、ともすれば安易な思考停止のように響く。だが系譜を辿ってみれば、この一行は決して手抜きの比喩ではなく、経済学者が産業の発展を説明するために、俳人が十七音の中に世界を凝縮させるために、それぞれ独立に到達した、汎用性の高い認識の型であることがわかる。むしろ問われるべきは、足すのか掛けるのか、型を借りるのか中身を借りるのか、という操作の選択そのものである。優れた企画とは、この選択を意識的に行った企画のことなのかもしれない。