• エッセイ・ノンフィクション

誰かと話さないとわからない自分のこと

――て、エッセイで話すより書くほうが気が楽だということを綴っておいて、なんですが。
言い間違いが多くても、話すことだって大好きです。でなければ、兄貴と長電話なんてしません。

更新したばかりのエッセイ三話でも兄貴の話をしましたが、ここでもちょろっと話させてください。

兄貴と話していると、割と毎回「そんなことまで考えない」「へー。で終わる話」と言われるんですね。
今回はツイッターのTLが見れなくなったと言ってるフォロワーさんの話だったのですが、私も兄もあまりツイッターを見るほうではないので――どこか蚊帳の外から話してるようで失礼にあたるかもしれません――まあ無くなっても大して困らないよね、と話が終着するまで私のほうで二転三転と話がころがりました。

兄貴が「ツイッターで呟いてばかりいる人は承認欲求の塊」「ツイッターにずっといるのはほとんど日本人だけ」「日本人は承認欲求で満たされたい人が多い」と言うので、
「つまりはそれだけ、リアルで(承認欲求が満たされず)発散できてないのかもね」「日本人は本音を表に出すのが苦手な人が多いんだよ」「だからと言って、誰でも見れる(または間違えて鍵を外して見られてしまう恐れのあるSNSで)なんでもかんでも言いたい放題発信してしまうのも、どうかと思うけど」「みんな、正しい発散方法をどこかでしっかり学べたらいいんだけどね」というような返しをしたら、まあ冒頭のように返され――急に恥ずかしくなってきて、

「いや、物語創作するのが好きだから、どこかでオチをつけて物語として終わらせたくなる癖なんだよ」

と返しました。
でもよくよく考えたら、オチがつかないと落ち着かないって、これ――関西人の考え方ですよね。
前回の近況ノートで言った「関西人のクォーター」という話と繋がる、というオチをつけて、今回はこれにて閉幕!


――じゃないんだよ、マジで。ちがうちがう。
又吉さんの話を入れようとしてたのに、うっかりしてた。

この前、又吉直樹さんのエッセイ『月と散文』を読み終えたのですが、又吉さんはすっっごく、一つの物事に対して広げる風呂敷が大きいなと感じました。
彼がyoutubeであげている動画も幾つか家族で視たりしているんですが、父も母も私も口を揃えて「普通はそこまで考えないよね(すごいね)」と話しました。

いや、私に至っては「どの口が言っとんじゃ」ってうちの家族は思うでしょう。それだけ、うちの家族は深く考えないだけなのか、私が考えすぎなのかは知りえないことですが――でも絶対に、又吉さんのほうがすごいと思うんだよなぁ……尊敬。

「どの口が言っとんじゃ」で思い出しましたが、数年前に友達と遊んでいるとき、友達の肌の白さに驚いて「本当に肌白いよね~」と、私の腕をとなりに並べたら……私のほうが白かったんですよ。いや、冗談じゃなくて本当の話です。

誰かに言われたり、一緒にいることでしか得られない、わからないことですね、これも。



(このオチのつけかたで、本当にいいの?)

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