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薔薇姫は事件に咲く〜薔薇の日常〜

 どうして僕は、井上くんに殴られているのだろう。
 公園の地面は砂利が多く、仰向けに倒れていると背中が痛い。井上くんの顔越しに空を見上げながら、悔しさと惨めさを感じていた。
 いじめられる側にも理由がある。なんて、どこかで聞いたことがある。けれど、僕には心当たりがない。
 小学校では『道徳』を習う。小学五年生になった今でも、『人には優しくするべき』という認識しかできていないけれど、井上くんだって『道徳』の授業は受けているはずだ。
 井上くんと僕とでは、認識が違うのかもしれない。
 僕が涙を流したところで、井上くんは満足して帰って行った。
 痛む箇所を無意識のうちに数えながら立ち上がると、少し離れた場所にあるベンチに座っている女の人が見えた。彼女の周囲には落ち着いた空気が流れ、近くには野良猫が座り込んでいる。
 テレビで見る芸能人にも劣らないほどの美人。季節外れのロングコートを着た、その女性は澄ました顔で、僕が『いじめられているところ』をずっと見ていた。
 僕からすれば充分大人なのに、その人は助けてくれなかった。
「あの、見て見ぬふりも『いじめ』じゃないんですか?」
 僕は女性に尋ねてみる。するとその女性は、左足に体を預けるようにして、ぎこちなく立ち上がった。よく見てみると、スカートに隠れていた彼女の右足は金属が組み合わさって出来ている。『義足』ってやつか、と僕は思った。
 直視するのは『道徳的』によろしくない、と僕は咄嗟に目を逸らす。
 すると花のように綺麗な女性は、揶揄うように微笑んだ。
「見て見ぬ振りは良くない、じゃなかったのかい?」
「・・・・・・だって、見られたくないんじゃないか、って」
「だったら聞くけれど、キミは『同級生に殴られているところ』を見られたかったのかい? キミが本当に必要としていたのは、『同級生に対抗する力』だろう?」
 彼女にそう言われ、僕は何も答えられなくなった。
 僕は『やめてよ』と言うばかりで、井上くんに対して、反撃することなどできなかった。本当は殴り返してやりたい、と思っていたのに。
「やあ、傷だらけの少年」
 彼女は言う。
「確かに助けてくれる大人はいる。『優しい大人』というやつだろう。けれど、それで解決するのは一時的。それが事実、そして真実。いいかい? 自分の足で立ち上がって、自分の手で戦わなければならないことが、いくらでもあるのさ。ただ『やめて』と叫ぶだけじゃあ、何も変わらない。それが現実なんだよ。立ち上がって、対立しなければならないのさ。対立とは対等に立つこと。倒れたまま、悲痛を叫ぶのは『猫に待て』と言うようなものさ」
 僕にだって分かる。犬じゃないんだから、猫が『待て』なんて聞くはずがない。
「無意味ってことですか?」
「ふむ、存外賢いじゃないか、少年。キミは小利口だ。けれど、ね。小利口は馬鹿に勝てないんだよ。私の知る『馬鹿』は、何もできないと頭で分かっていても、体が動いてしまう。彼は、ね」
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
「他人から、容易に得た答えに意味なんてないよ。考えて考えて、脳髄が疲弊するまで考えて、立ち上がる。行動する。だから私は、この足に誇りを持っているのさ。キミが『道徳心』によって目を逸らしたこの足にね」
 彼女はそう言うと、僕に背を向けてベンチから離れようとした。
 すると、近くにいた野良猫が、彼女に吸い寄せられるかのようにその背中を追いかける。
「ああ、そうだ。少年、キミは勘違いをしている」
「え?」
 その女性が何を言っているのか分からず、僕が聞き返すと、彼女は野良猫に右手を開いて掌を見せつけた。
「待て」
 彼女の一言により、野良猫は動きを止めて、その場で停止する。
「かのナポレオン・ボナパルトは言った。『吾輩の辞書に不可能の文字はない』とね。けれど、世の中には『不可能』が存在する。ナポレオンの言葉の本質は、『不可能だと決めつけることが愚か』だってことさ。一見、一考、不可能だと思われることも正しく行動すれば、『不可能』ではなくなる、こともある。キミのその足は、手は、頭は、全て飾りなのかい?」
 決して『優しくはない』女性は、それだけ言って、公園から立ち去ってしまった。
 気づけば、体の痛みは消えている。ただ一点、握りしめた拳の熱さと、食い込む爪の痛みを除いて。

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