そうなんですよね……。
いわゆる「愛され小説」?
ちょっとよく分からないんですが、とにかく主人公が世界観において贔屓されたり無敵の存在になったり出て来るキャラ出て来るキャラに愛されたりする話ですが……。
ああいう小説を読むと私はこう……心の平衡感覚を失ったような気分にされて非常に不安感を持つのです
なんでも主人公の言ってることが正しく、正義であり、誰もが「その通りだ〇〇様〇〇様~~~~!!✨」みたいに歓声をあげてる世界を見た時の気持ちの悪さです。
いや勿論その状況として、圧倒的にその人が支持を受けることはあります。
現実世界でも満場一致で支持されることはありますので、そういうのは全然いいし、むしろカッコよくて好きです!!
しかしながら世界観や性質として「この主人公は全ての人に愛される存在である」みたいにされると私はむしろ心の毒が目覚めて「そんなわけあるか この主人公に一太刀食らわせる存在が出て来たら私はそいつを応援するわ」ってなりかねないんですよね……。
なんかしかもその主人公を人々が支持する理由が「美形だから」とか「言動可愛いから」とかいう非常に表面的でしかない、実際になにか素晴らしい政策をしてくれただとか、何か戦功を上げて人々を守ってくれただとか、それならば人々も慕うであろうと納得出来る何かがあるならいいけど、そこの理由が大したことないと、やはり全体のその「主人公が圧倒的に正しい。圧倒的に愛される世界観」についていけなくなることがあります。
例えば、うちの【ジグラート】のネーリも、今ヴェネトに参集しているフランス・スペイン・神聖ローマ帝国という3つの軍の総司令官のいずれからも好印象を持たれています。
しかしそれは本当に言動を持って「良き魂だ」と思われてるからであって、ネーリの行いや人柄に対して、ちゃんとそれを受け取った人が「いい子だな」と思って慕ってるだけで、ネーリが美形だからとか可愛いからとかではないのですよね。
それに圧倒的に王妃に憎まれていますし、
3人の総司令官も個人としてはネーリに好意的ですが、
王妃がネーリを抹殺しろと彼らに命じたら、国を人質に取られてる彼らは、断る術はありません。
彼ら個人がいかにネーリが好きでも、国と天秤に掛けたら、総司令官3人はネーリを排撃に出ます。
いや、違うのです。
私はそういう時に、迷いなく、自分の使命だと思ってちゃんとネーリの排除に出て来る総司令官が好きなのです。
ここで「いや俺はあの子が好きだからやらへん」みたいなのは、愛情や優しさではなく、単に使命に対していい加減な人間であることしか伝わってこないのですよね。
ネーリと想い合うフェルディナントでさえ、王妃に命じられれば剣は抜かなくてはなりません。ネーリはフェルディナントの愛情を感じていても、「ああ王妃に命じられてしまったんだな」と理解し――、苦しい心で、それでも国の為に使命を全うしようと剣を抜いて来るフェルディナントの、剣を憎しみとかなく受け止めてくれるような存在であってほしいのです。
そういうのを描いたら、多分ネーリが人から慕われるのは、美貌や可愛い言動が根本ではない、というのがちゃんと伝わると思うのですよ。
世界観が偏りすぎた話というのは、非常に理不尽さや、不安感を一定の読者に与えることがあります。
三国志なんかもそうでは?
私が【三国志演義】、好きな部分は好きだけど、全体的には嫌悪感を抱くこともあるのは、あれはベースが劉備や【蜀】は善なるものである。魏や曹操は悪辣な敵であり、呉は仁義がなくその時々で機運に乗るのでいずれ天罰があるだろう的なニュアンスを含んでおり、圧倒的に【蜀】を善なるものとして見てます。
実際の三国時代は史実ですので「圧倒的な善なるもの」とか三国にありません。
それぞれが自分の国、自分の国に課された運命を、色んな立場の人が必死に幸せになろうと生きてるだけであり、
それぞれの国に信ずる部分があるのです。
【三国志演義】の孫策とか呂蒙が殺した者の亡霊に取り殺されるみたいな描写は、私から言わせれば魏にも蜀にもじゃあそういう奴らがいるはずだと思うので、なんか納得出来ねえなと思わせる要因の一つですね。
私は基本的に創作においては反社会的なスタンスを取ることが多いらしく、
「みんながそいつを大好き」で、なにもかもそいつが善なるものとされると、どうも「俺はそんな光の中でしか生きてない奴、嫌いだね」のようなやさぐれ剣客のような心持ちになるのかもしれません。
ただ、主人公に愛され要素や、正しさがないと、物語全体が迷走してしまうので、ある程度そういうものはなければならないというのが難しい所。
主人公が愛され過ぎていたり、正しく描かれ過ぎてるように、読者に感じさせないようにするためには、やはりどこかで定期的に主人公でも批判される時は批判されたり、間違いを犯し、それを強く悔い改めるような、そういう展開を描くことで、【偏った世界観だな】と読み手に思われないようにする工夫が必要になるのかもしれません。
うちだと【翡翠】のメリクなども非常に聡明で情け深く優秀で、非の打ち所がなく、会う人会う人に愛され評価される人ではありますが、
ただ、圧倒的に、理不尽に、リュティス殿下に嫌われております!!!😇
【翡翠】にとって世界観のバランスを取ってくれているのがリュティス殿下なのです! 彼がメリクに陥落したら、恐らくこの世界あと描くものなんにも特にないハッピーエンドでただ終わる話になります。
そう! リュティスが【何故あんなにもメリクを疎んだのか?】という不気味さが、【翡翠】という話の肝なのです!
愛され小説家は多分どこかでリュティスがメリクの真心に気づいて愛されるようになってそこで話は終わると思います。
私は愛され小説家ではない、どちらかというとやさぐれ剣客商売小説家(フィーリングでニュアンスを受け取っていただきたい)なので、そんな簡単に世界を描きません。
そんないつかリュティスがメリクの真心に気づいて愛するようになるくらいの話は私以外でも簡単に書ける話です。だからそんな話には私は全く興味がありません。
私は私にしか書けない話を書きます。
死ぬ瞬間までメリクを疎み続ける。明確な理由もなく。
ただ、なんとなく。
そういう、理不尽な、
不可思議な歪みが存在し得るのが、
この世界というものだと思うからです。
しかしそれで終わっては単に世の世知辛さを書いただけであり、
そんな夢も希望もないものを【創作】で書いても、それは何よりも厳しい現実世界の冷徹さになど逆立ちをしても敵わないので、意味が無いのです。
現実世界にも理解出来る理不尽を描きながらも……
現実世界ではそうそう起こらない、情け深い運命も描き出す。
そういう絶妙な、生と死の本当に境目でしかないような絶妙な塩梅の世界を自由に描くことが出来るのが【創作】の醍醐味なのです。
単なる愛され小説など、現実世界でも存在しない。創作の世界においても工夫のない、どっちの世界においても説得力がない幻想のような子供騙しでしかないのです
愛される存在の側には、
必ず憎む者がいます。
両者が互いに手を出しあわないように、どこか両者が満たされる、彼らだけで向き合う必要がない世界にするということが重要であり、
憎む者を皆無にするとか、
完全に排除して存在を殲滅するとか、
そうされた世界とか。
そういうのは全然実は幸せな世界とは見えない、
不均衡であり、
私には不気味な世界に映るのです
心地よい世界観を読み手に読ませるというのは、
この描き出す世界観の不均衡なニュアンスを、やはり平等に近いバランスに戻す描き方をする(分かりやすいのがいっぱい愛される人の側にも、それを感情以外の理論から批判する人を描いたりしたり、他の愛される人を描き、その人はそちらに心を向けていたりする描写など)、一定の世界の傾きを均すような描き方をしている人を見ると、
ああこの作者世界のバランスが分かってるんだなあ
と思ってちょっとホッとしたり出来るのです
醜いものしか書かない方に偏ってる作者も作品が不快な要素だけになって嫌ですが、
あまりに聖なるものを力技で押し付けて来る作者もそれはそれでなんだお前は宗教の押し売りか!! という心境になり、心の一匹狼愛好家の私は正義や愛情という本来素晴らしいものでも「それ以外認めない!!」みたいな世界観にされると反感を抱いてしまうようです
現代よりも異世界ファンタジーとかに、こういうのを無意識に書いてしまう人多いので注意が必要です。
異世界ファンタジーはその気になれば、自分の何もかも好きなように世界を作れるでしょう?
だから忘れるのですよ。
愛されないことや、
理解されないこと。
現代では当然のように身近にある、
そういう苦しみを、意外と異世界ファンタジーにおいて軽視してしまう作者もいるようです。
愛される人を書いても、
ちゃんとその人も批判されることがあったり、
貴方より好きな人が私はいるみたいなキャラが出てくれたりすると、
本当に私は作者がバランス感覚優れた人だなと思って安堵するのです。
青維月也さんの【やさしい魔法使いの起こしかた】や
翠川あすかさんの【聖霊の守護王Ⅰ 竜の召喚者】などは、
主人公が批判されたり、理解してくれない人たちとかも描いてくれるのですよね。
聖霊の守護王の方で主人公のヴェルが竜を呼べるんですが、彼女は最初から竜を呼べたので、それが普通だと感じていたようだけど、それは普通のことではないらしく、呼べない人もいるのですね。
だけど彼女は意識下では苦労なく呼べた人なので、気づかなかったのですが「苦労なく呼べることは凄いことなんだ 誰しも出来ることだと思うな」というようなことを言われるシーンがあるのです。
ああいうのも、作者が世界観のバランスを気にしない人だったら、入れないエピソードだと思うのですよ。細かい部分なので。
しかし多分あれを書いたということは、作者が「主人公が何でも正義。全部を手に入れて当然。愛されて当然」みたいな考え方を、持っていないこと、むしろそうならないように気を遣う人である証のような気がするのです。
ああいうエピソードは。
どちらも長編を書いてらっしゃるんですが、ああいう感性は非常に大切だよなって私は思うので、最後の最後まで作品の中に存在してくれたらいいなぁと思っています
言っておきますが、これは非常にレベルの高い領域の話です
普通はこんなんじゃなく「とにかくなんだそのエピソードは」「その理論おかしいだろ」みたいな部分でキャッキャ言い合うのが普通です。
世界のバランスを考えた作品作りをして頂きたいとかは非常にレベルの高い上級者向きの要求なので、全ての人にこんなこと要求しませんのでご安心ください😇
まずは自分の書きたい世界観を、思う存分自由に書くことが何よりも大事です。
実力がついて来たら、やはりそういうより作品の完成度を上げるために必要な、上級の工夫や描き方を考えるのも必要なんだよなあと思うので
うちの【ジグラート】のネーリは、【シビュラの塔】の声(中にいる神獣の呼びかけ)が聞こえています。彼はこの声を聴いて、自分にやらねばならないことがある。それをすることが自分の使命だと思う時期があるのですが、
ある人に、ある時「そういう考え(自分が運命の者)だと思うのは傲慢な考え方だからやめろ」と諫められるよう描きたいと思っています。
その人はつまり、運命に翻弄されるな、何もかも自分の自由に、自分の考えで生きて行くべきだということをネーリに伝えたかったのですが、
同時に何かをする時に「運命に呼ばれたから」を言い訳にするのは人間として卑怯なことなのだ、ということを暗にネーリに悟らせたいなという私自身の意図もあります。
何か大いなること、正しくても犠牲者が出るようなことをする時に、
「運命に導かれたからやるしかない」などと
そいつが口にしても、例えば自分の大切な人がその「犠牲者」の中に入っていた人は、絶対に納得できないと思うのです。
運命という言葉に隠れるな、一人の人間としてお前がやったことだろ、出て来い!!!💢💢と、私ならそう思う気がする。
だからある時まで、ネーリは運命に導かれて自分はここまで生かされてきた、と(いい意味でですが。生かしてもらえた、という意味で彼は受け取っている)思っているのですが、
その人にそう言われた時から
「運命じゃなく、全て自分の意志と覚悟で、道を選び取って生きて行こう」という考えに変わるようになります。
私はそういうやりとりとか読むと、
やはり世界の光も闇も、ちゃんと描かれてる話だなあと思って安心するんですよね
運命に導かれる人は好きなのですが。
自分が「運命に導かれている人なので世界に対して何をしてもいい。何をしても仕方のないことだ」などと思ってる人はやはり好きになれません。
みなさんは【運命】にどのような印象を持っているでしょうか。
深いテーマなので、自分の作品を使って、長く向き合って答えを模索していくのも楽しい気がします🤗✨