• 異世界ファンタジー
  • 現代ドラマ

最果ての冒険者ギルドの調査官 朝露とシルフィウム ③

 下山を開始してから、もう数時間は経った筈なのに、一向に麓に着く気配はなかった。
 夜の山道というものは、おれが想像していたよりもずっと深く、暗いものだった。
 このままでは当日中の帰還どころか、山中で一夜を明かすことになるかもしれない。
 焦り始めたおれは早急に下山しようと歩を早めるも、一歩踏みしめる度にせり出した枝葉が顔に当たり、転がる石が足取りを挫いて、中々思いどおりのペースで進めないでいた。険しい山道を照らすには、おれの持ってきたオイルランプの明かりでは小さすぎた。生い茂る緑、揺れる木陰と日差しのコントラスト、日中あれほど美しく感じた光景は、今ではおどろおどろしいまでの暗闇でしかなかった。
 頼りなく揺れるランプの火が、木々の間にぽつんと置かれた里程標を捉えたのは偶然だった。しかし、里程標の書かれていた文字は、おれの心をへし折るには十分過ぎた。
 ――8合目。
 嘘だと思いたかった。当日中に街へ戻れるだと? あのクソ冒険者ども、適当なこと言いやがって。
 おれはサーシャから受けた報告を、そのまま課長に伝えた翌営業日のことを思い出していた。
「お前、明後日、オウル山まで往復どれくらい時間が掛かるか、実地調査に行ってこい」
 その日、課長はおれをデスクに呼びつけるなり、そう言った。
「え、なんでですか。急に」
「ほら、お前が先週末教えてくれたシルフィウムの件。あれな、該当冒険者たちに問い合わせたら、普通にオウル山まで行って、当日中に帰ってこれるって回答してきたんだよ」
「それ、鵜呑みにしたんですか?」
「そんなわけねえだろう、だから試しにやってみろって行ってんだ」
「やるまでもないでしょう、そんなの無理に決まってますよ。だいたい自分、オウル山どころか、山登りすらしたことないんですけど」
「そんなの気にすんな。俺だってない」
「そういうことじゃなくて、自分なんかより、もっと適任者が、居るんじゃないでしょうか」
「そりゃあ、大抵の仕事はそうだろう」
 課長は意地悪そうに口角を上げた。
「でも、お前以外の手が空いてる奴らは、みんなもう別の仕事に取り掛かってる」
 おれは周囲を見回した。誰も顔を上げようとしない。どうせ皆、くだらない書面や帳簿と睨めっこして、忙しい振りに努めているだけだろ。
「なんだ? まさか、やりたくないとは言わんよな?」
 課長の声が低くなる。おれは向き直って、姿勢を整え言った。
「いえ、全力で取り組ませていただきます」
「おう、頼んだぞ。お前の実力なら、余裕だろ」
 課長がねぎらいとばかりにおれの肩を揉み、おれはへらへらしながらそそくさと自分の席に戻った。そして、課長には聞こえないが、周囲の数人には聞こえる程度の音量で舌打ちをする。平職員のおれに出来る抵抗と言えば、それくらいのもんだった。
 おれは里程標に蹴りを入れ、また歩き始めた。この人っ子一人いない夜の山道でなら、舌打ちどころか、上司の悪口を声に出すことすら躊躇う必要はないだろう。むしろそうでもしなくちゃ、おれはこの暗闇の中でひとり、襲い来る孤独と恐怖に耐えきれそうもなかった。おれは他の職員と違って、帝都出身の自由民なんだ。東世界の暗闇や、いたるところから聞こえてくる獣の鳴声、舗装されていない道路、どれも馴染なんてこれっぽっちもなかった。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する