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総合点・方角の見方

(ファンボックスに載せたものと同じ内容です)


フィン感で用いている総合点・方角の見方についてご紹介します。

●総合点
作品によって満点が異なるのが特徴ですが、見るべきポイントは三つです。

1:得点
80/100の80のことを指します。数字が大きいほど優れています。
大雑把に言えば、その作品で発揮された筆力。
その作品がどのくらい面白かったか、と考えてもらっても構いません。
他の作品と比較する際に有用で、相対的な完成度として捉えることができます。
これを伸ばすには様々な小説技術を磨くことが推奨されます。

2:満点
80/100の100のことを指します。数字が大きいほど優れています。
大雑把に言えば、その作品が持つ可能性。
その作品がどのくらい面白くなりうるのか、と考えてもらっても構いません。
この数字が大きいほど、フィン感の内容が高度になる傾向があります。
これを伸ばすには着想や構想を磨くことが推奨されます。

3:差分
80/100の100-80=20のことを指します。数字が小さいほど優れています。
大雑把に身えば、その作品における作者の到達点。
その作品の面白さをどれくらい引きだせたのか、と考えてもらっても構いません。
他の作品との比較ではない、絶対的な完成度として捉えることができます。
フィン感では、この数字が大きければ指摘がち、小さければ褒めがちになる傾向があります。
これを伸ばすには小説技術は勿論、その作品への追求心を高めることが推奨されます。

と、三つのポイントをご紹介しました。
「得点」と「満点」は把握していたが、「差分」を把握していた方は少ないのではないでしょうか。
これを踏まえたうえで、いくつか例を挙げます。

・80/100と80/105
ぱっと見た感じ、80/105のほうが優れているような気がします。
確かに「満点」は80/105のほうが高いので、こちらのほうが作品が持つ面白さの可能性は大きいかもしれません。
しかし「差分」で見ると前者は20、後者は25と前者のほうが優れており、前者のほうが作品の完成度は高いとなります。
ですので一概にどちらが優れているとは言えません。なお後者のほうがフィン感は高度かつ指摘がちになる傾向があります。

・100/130
ぱっと見た感じ、すごい作品のように見えます。
類稀な着想が使われている作品である場合があり、「満点」の高さはもとより、着想に引っ張られるかたちで「得点」も高くなっています。
しかし「差分」を見ると30と非常に大きいです。「差分」だけなら70/100の作品と変わりません。つまり技術と着想のバランスが悪いのです。
そのためフィン感は面白さを認めたうえで、大量の指摘で埋めつくされているかもしれません。
こういった作品・作者は完成度を高めて「差分」を小さくすることが求められます。

・100/100
ぱっと見た感じ、完璧な作品のように見えます。「差分」が0ですから、全てが褒められそうに思えます。
しかしこの作品は、その作者の筆力を受け止められるだけの着想を得られていない可能性があります。その作者の技術なら105も110もとれるのに、着想が平凡なために100止まりになっている可能性があるのです。つまり技術と着想のバランスが悪いのです。
こういった作品・作者は着想を磨いて「満点」を伸ばすことが求められます。
「差分」は0ではなく5が理想的であると考えています。
(なお定期更新を行っている作品の場合は、110とれる実力で100をコンスタントに出すというのはとても大事なノウハウです)

以上が総合点の見方です。自作へのフィン感の捉え方、他者作の感想の見方にお役立てください。
(※飽くまでフィンディル個人の主観で点数をつけていますからね!)


●方角
フィン感では、書いた作品に十六方位で方角を記しています。
この方角は、その作品の面白さの方向性を表したものです。

北:大衆的
多くの人に広く届く面白さを目指した、読みやすく、わかりやすい方向。
展開や構成などの技術を巧みに使い、作品の面白さを盛りあげます。
賞を受賞したい、多くの人に評価されたい、人気作になりたいのならば、北北西と北北東の間を向いていることが推奨されます。

西:昇華的
誰か(作者含む)の心に深く届く面白さを目指した、内面をそのまま抉りとったような方向。正負含めた心のエネルギーを創作にぶつけたような作品。
展開や構成のお約束を排し、リアルや余韻を追求し、昇華を経た作品も少なくありません。
昇華を経ていなくても、展開や構成のお約束を排した非作品的な作品は西に近づきます。

東:実験的
誰か(作者含む)の創作欲求を深く満たす面白さを目指した、独創性に尖った方向。
創作の新たな可能性を追求した、新規性に富んだ手法や構造の作品。
創作の面白さを再構築することが多いため、一般的な小説技術は敢えて排除されることが珍しくありません。

南:抽象的
何かに届くかもしれない面白さを目指した、感性が赴いた方向。
技術や理屈ではなく、感覚と観念が生みだした作品。
展開や構成などの小説技術はもとより物語要素すら除去し、文章や文体そのものに意味や価値を見出すことが一般的です。

以上のように東西南北に創作の方向性を配置し、それを十六方位で表現したものが作品の方角です。
ほとんど全ての小説は北西と北東の間90度(北西北東内)に収まっており、多くの方はこの範囲外(北西北東外)の作品を「意味や面白さがよくわからない(から面白い・からつまらない)」と判断します。
そのため公募や評価機会に恵まれた北西北東内の作品に対し、北西北東外の作品はまともに感想すら受けとったことがない作品がほとんどです。感想書きに応募してもろくな言葉をもらえないでしょう。
そんな北西北東外の作品をしっかりと受け止めて評価をし指摘をする。それが「フィンディルの感想」の存在意義のひとつであるとフィンディルは考えています。
まともな感想をもらったことがない北西北東外の作品に“一生ものの感想を”という意志を、「方角」の表記にこめたいと思います。

「方角」の活用方法ですが、そのフィン感がどの程度参考になるかという尺度になります。
方角の違う作品へのフィン感は、評価基準が全く異なるため、指摘などの感想内容も全く異なります。ですので参考に適さない可能性が高いです。
たとえば普段北向きの作品を書いている作者は、西向きの作品への感想を参考にしてはいけません。
また「自分は面白いと思わなかったが、フィン感では何故か高評価だ」と不思議に思われた場合は「方角」を参照してみてください。他の作品と向いている方角が大きく違う場合があります。
(なお同一作者の作品達の方角の間が最大90度以上離れていると、「創作の幅が広い」とフィンディルは判断します)

(※飽くまでフィンディル個人の主観で方角を設定していますからね!)


以上、総合点と方角の見方でした。役立てていただければと思います。

22件のコメント

  • フィンディルさま

    フィン感のコメント欄にて、今後も応募してOKと言っていただけたので、さっそく応募させていただきました。

    『おとぎのびんづめ』という童話の短編集の中から、「ネコの大工」という、実話をもとにした童話です。
    これは母が経験したことを、はた目から見てこんなことではないか、と想像を働かせてみたものです。
    では、もし、よろしければまた。






    10
    水木レナ
  • フィンディルさん、こんばんは。先日はありがとうございました。お邪魔いたします。

    だいぶ時間がたってしまいましたけど、Fc2のサイトお教えいただきありがとうございました。とりあえずおススメしていただいた『想うこと、その憤り』と、『未だ見ぬ世界の君の声』、『ごじの肝だめし』、『悪魔は再び舞い戻る』を読ませていただきました(もちろん作品自体も)。どの感想も読みごたえがありました。作品としては、個人的に『未だ見ぬ世界の君の声』が印象的でした。ご存じの通り、私は伏線や仕掛けが大好きなので。もちろん、PIXIV FANBOXもずっと読ませていただいてます。

    さて。「総合点・方角の見方」、面白いです。特に、方角。説明を読んだあとでフィン感に書かれている感想のそれぞれの方角を見ると、なるほど、と納得しました。私のものも含めて。フィンディルさんのそれぞれの作品に対して抱かれている感覚は、確かにそうだな、と共感できるものでした。

    興味深かったのは「北西北東外の作品」というものを意識されていることでした。それらの作品は多くの人から「意味や面白さがよくわからない(から面白い・からつまらない)」と判断されるけれども、フィンディルさんはそういう作品も受け止めて評価をし、指摘をされる、そこが面白いな、と。まず純粋に、懐が広いなー、と思いました。読むだけならまだしも、それだけ幅広い方向性の作品に対してあれだけの量と深さの感想を書くわけですよね。

    ただ、正直に言って、私は「南」の作品ってピンとこないんです。これまでのフィン感で取り上げられた作品に「南」のものがないからなのかもしれません。抽象的……どういうのなんでしょう? 「西」とはまた違うんですよね。あと、「技術や理屈ではなく」というところが、やっぱり懐が広いなーと思いました。

    「南」の作品のイメージが正確に掴めていないのでズレているかもしれませんし、あくまでも私の勝手な感覚なのですけど、自分で書く小説はどうしても「技術や理屈」に重きを置く傾向にありますので、はたして私は「技術や理屈ではない」小説を楽しめるのだろうか、と思ってしまうのです。

    もちろん、世の中には「技術や理屈ではない」素晴らしい創作物がたくさんありますよね。分かりやすいのは音楽とか絵画でしょうか。例えば、子供の描いた絵は技術的な裏付けがないのに素晴らしいです。土着のプリミティブな音楽や絵画もそうです。アウトサイダーアートやパンクミュージックもそういう範疇に入るのかもしれません。いずれも純粋でパワーがあります。そして、私はそれらを見たり聴いたりするのが大好きです。

    ただ、文学、特に小説で、そういう経験をしたことが、私はない気がするんです。たぶん、ない、と思います。もしかしたらそういう作品に巡り合えていないだけなのかもしれませんし、出会っていてもその素晴らしさに気がついていなかったのかもしれません。なので、今後フィン感で「南」の作品に出会えるのを密かに楽しみにしています。自分の書く小説の参考にはならないかもしれませんけど、新たな発見があるのって嬉しいですよね。

    と、技術について偉そうに書いてきましたけれど、私はそもそも小説における技術というものを自分ではっきりと体系づけて認識し、使いこなしているわけではありません。また、技術のための技術、技術をひけらかすための技術は嫌だな、と思ってます。私の理想は、ほとんどの人には気づかれないけれども、実はとても高度が技術が使われている、そんな表現です。

    とりえあえず今日はこの辺で。ではでは、また~。
  • Han Luさん>

    コメントありがとうございます!

    Fc2のフィン感を読んでいただきありがとうございます。
    仕掛けという意味ならば「ごじの肝だめし」のほうが凝っている印象はありましたが、なるほど「未だ見ぬ世界の君の声」のほうが印象的だったのですね。もしかしたら改稿により内容が大幅に変わっているかもしれませんが。
    私の印象ですが、Han Luさんはやはり作品のための仕掛けがお好きなようですね。
    そうなると、もしかしたら「鵺と私」はフィン感と合わせるとちょっと面白く読めるかもしれませんね。
    ありがとうございます。

    北西北東外にこそ実のある感想を、というのはフィン感の目的のひとつです。もうひとつ別の目的がありますが。
    北西北東外の作品って、「よくわからないから絶賛」「よくわからないから酷評」のどちらかなんですよね。両者は全然違うように見えてほとんど同じ。「こういうの好き」と仰る方もいらっしゃるのですけど、内容にまでは深く入っていかないことが多くて。
    そういう作品達に、北西北東内と同じような実のある感想を、というのが目的のひとつです。

    また、面白さの判断ができる範囲がどれだけ広いか、というのは感想書きの重要な素質だと思っています。「面白さがよくわからない」がどれだけ少ないか、これが大事だと思います。
    小説書きはその範囲が狭くても、自分の方角を突きつめればいいのですが、感想書きはこの範囲の広さがとても大事です。感想書きは、どれだけ広く向けるかが大事です。
    感想書きとしての腕を高めていく意味でも、北西北東外に実のある感想を書くことが大事だと思っています。

    南の作品がピンとこないということで、一作サンプルを持ってきました。
    数年前に私が書いた「MultiEnd or RainyDays」という作品です。
    http://cosmo.deci.jp/shiftup/flash/sim/newbbs/patio.cgi?mode=view2&f=20144&no=8-9
    (パソコン推奨。レイアウトが崩れる場合は、画面の倍率を縮小してください)
    この作品の方角が、南南東あるいは南東という判定になっています。ちょっと東が強めの南向き作品ですね。
    こういう感じの雰囲気ですよということがわかれば幸いです。楽しめますでしょうか。

    ―――――――――――――――――――
    私の理想は、ほとんどの人には気づかれないけれども、実はとても高度が技術が使われている、そんな表現です。
    ―――――――――――――――――――
    「そして、扉は閉まる」がまさにそんな小説ですね。だから、Han Luさんはフィン感応募の一作目にこの作品を持ってきたのですね。
    Han Luさんが自分の理想の向きに近いと感じてらっしゃる作品を、フィンディルはどう評価してくれるかと。
    結果、良かったみたいで嬉しいです。
    そういう意味でHan Luさんは北北東か北東が合っているのかなという印象があります。
    東北東や真東に行くと、技術のための技術、技術を楽しむ技術、技術に物語を添えて、というような感じになってくるのです。
    多分それはHan Luさんは書くでも読むでも合わないのだろうと思います。Han Luさんの作品は、物語の表現のための技術ですからね。

    ありがとうございました!
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    さっそく「MultiEnd or RainyDays」読みました! 面白かったです。私は楽しめました。特に、 ( No.9 ) が好きです。残念ながら私は感想書きではないので、うまく説明することができませんけど、目で文章を追っていると、その文章のリズムがまるで雨音のリズムみたいに感じてきました。私はたまに環境音を聞くことがあって、なんと偶然にも、つい昨日、雨の音を録音したテープを流しながら小説を読んでいたのでした(昼間は雨が降りましたけど、夜はすっかり止んでいたので)。

    雨の音って、規則的でありつつも、徐々に変化していったりして、ゆらいだり、つっかえたり、不思議な心地よさがあります。あの文章を読んでいると、そういう、単調だけど、ちょっとずつずれていくような反復の感覚がもたらされて、雨の音を聞いているような心地よさを感じました。文末に置かれている男女の会話の二言は、雨のしずくがぽちゃん、と最後に落ちて跳ねてるみたい、そんなことも連想しました。

    なるほど、ああいうのが南向きの作品なんですね。でも東の要素もあるんですよね。なんとなくわかった、ような気がします。たぶん私はおっしゃるように東北東や真東の作品は合わないでしょうけど、南東から南南東の作品は楽しめる気がします。うまく説明はできないかも、ですけど。

    ネットの感想なんかを見ると「よくわからないから酷評」ってよく目にします。分からない、理解できないから、ダメ、みたいな。そういうのはなるべく読まないようにしていますけど、目にするとちょっと悲しくなります。そういう人たちに、面白さを伝えらえる感想が届くようになったらいいですよね。

    ちなみに、私は実はむっちゃめんどくさがりなので、普段は面白さを細かく分析したりすることは、少なくとも小説においてはないので、なおさらフィンディルさんの感想は驚きなのです。

    ところで、フィンディルさんはよく「感想書き」という言葉を使いますけど、「感想書き」さんって、結構いらっしゃるものなのでしょうか。ここでいう「感想書き」とは、カクヨムのような投稿サイトに書いているアマチュアの作品に対して、頼まれて感想を書く、という人のことですけど。

    「そして、扉は閉まる」は、はい、そういう表現を目指したわけです(自分ではなかなかそこまでは至っていないと思ってますけど)。ただ、自分の理想の向きに近いことは確かで、だから、フィンディルさんの感想をもらえて、よかったなーと思っています。

    ではでは、また!
  • Han Luさん>

    おー、早速読んでくださってありがとうございます!
    楽しめましたか、良かったです。
    Han Luさんは
    ―――――――――――――――――――
    もちろん、世の中には「技術や理屈ではない」素晴らしい創作物がたくさんありますよね。分かりやすいのは音楽とか絵画でしょうか。
    ―――――――――――――――――――
    と仰っていましたが、南向きの小説は音楽や絵画に近しいと考えています。
    曲を聴くように絵を見るように、文章を読む。それが南向き作品の一般的な読み方だと思います。
    南向き作品のイメージが掴めたようでしたら幸いです。また南向き作品をHan Luさんが楽しめるようで、私は嬉しいです。

    北北東の作品が「物語のための手法(技術)」である傾向ならば、南南東の作品は「文章のための手法(技術)」である傾向だろうと思います。
    「文章のための手法(技術)」と「手法(技術)のための手法(技術)」の違いは、難しい感覚なのですがご理解いただけると思います。
    そういう意味ではHan Luさんには南南東は馴染みやすいのかもしれませんね。
    Han Luさんは北か南かというよりも、東の取りいれ方に敏感な方なのかもしれません。

    とはいえHan Luさんに真東の作品が合わないかもわからないですけどね。
    Han Luさんが嫌う「技術のための技術、技術をひけらかすための技術」は単純に作者の実力の問題かもしれないですから。
    技術の出し方がその作品に見合っていない場合は、方角ではなく実力や品質の問題となります。
    手法のための作品とわかれば、別の印象を抱くかもしれません。
    (東向き作品のサンプルを持っている顔)

    感想書きという言葉についての認識は、Han Luさんの認識と私の認識とで相違はありません。
    頼まれて感想を書く人です。感想を書くことを活動にしている人ですね。
    そこそこいると思います。色々な感想書きに依頼したことのある方なら、感想書きを何人か挙げられる人もいると思います。
    ただ私が「この感想書き良いな」と思うような感想書きは、残念ながらほとんどいないです。
    これについては、色々な感想書きに依頼したことのある方のほうが詳しいかなと!

    「そして、扉は閉まる」、良かったですよ。
    Han Luさんの理想が上手く表現されていると思います。ちゃんと理想を作品に宿せていると思います。
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    南向き、なんとなく掴めましたし、たぶん楽しめると思います。「南向きの小説は音楽や絵画に近しい」というのも、感覚としてよく分かります。最初、南向きの説明を読んで、思ったのが、小説というよりも、詩、それもいわゆる超現実主義的な詩みたいだなーということでした。

    以前、カクヨムでフォローさせてもらっている方と近況ノートでやりとりしていたときに、そういう近代詩のことを教えてもらって、そのときに、コンクリート・ポエトリーという前衛的な詩のことを知りました。そういう、抒情性や物語性を排した作品は、文字で表現されていても、絵画を見たり、音楽を聴いているときのような感覚に近いものを感じます。フィンディルさんの「MultiEnd or RainyDays」も、視覚的なもの、音的なものも(実際に音は聴こえないのですけど)非常に重要な要素だと思いました。

    たぶんおっしゃるように、私は南向きであっても、東の要素が入っていれば馴染みやすいのかもしれないです。そうですね、「東の取りいれ方に敏感」なのかも。真東……どうでしょう。興味あります。結局は、その作品と技術の種類や扱い方がマッチしているかどうかですもんね。なるほど。
    (東向きサンプルを読んでみたい顔)

    感想書き、少し調べてみました。そういう人たち、いるんですね、知りませんでした。私が見たのはココナラというサービスサイトでした。有料で感想を書かれている人もいましたし、感想だけじゃなくて、依頼されて小説を書くサービスを提供している人も見かけました。なんか、世の中いろいろあるなーと、ちょっと驚きです。

    東向きサンプル、よろしければ是非。

    ではでは、また~。
  • Han Luさん>

    確かに南向きの作品は詩に近しいと思いますね。それも超現実的な詩と近い。明確な区別というものもつけられないかもしれませんね。
    でも私は作者がそれを小説と思って書いているのなら「いや詩じゃん」と言わずに、小説として対応をするつもりです。
    それに作者が詩と思って書くと詩に、小説と思って書くと小説になる気がしているんですよね。
    (Han Luさんが「つまりそれは詩では?」という趣旨で仰っているわけではないのはわかっていますよ)

    コンクリート・ポエトリーという概念があることは知りませんでしたが、似たような創作は考えたことあります。何だか懐かしい気分。
    コンクリート・ポエトリーは文字を図形として見るのが明確すぎて、ちょっと好みではないかもですね。ほんの少しだけ、字義を混ぜたくなるのは文章書きとしての価値観かもしれないです。
    コンクリート・ポエトリーではないですが、パソコンで「あ」を一気に百回打った場合と、パソコンで「あ」を一日一回計百日かけて打った場合とでは、作品として全然違った見映えになるんじゃないか? と考えたことがあります(これは百日かけて打ちましたと説明せずに)。百日かけて制作した大作に見えるんじゃないかと。

    顔を受けとったので東のサンプルを出しますね!
    とは言っても真東のサンプルはないので、東南東の作品になります。南が強めの東向き作品。
    ただ「MultiEnd or RainyDays」が南南東なので、比較としてはかえって面白いんじゃないかとも思います。
    http://sasisusesoda.blog.fc2.com/blog-entry-247.html
    「四季(前展)」という作品です。東南東判定。
    (パソコン推奨。レイアウトが崩れる場合は、画面の倍率を縮小してください)

    感想書き達を知らなかったということは、今までHan Luさんは感想を依頼してみようと思ったことがないのですね。
    にもかかわらずフィン感には応募してくださったこと、嬉しいです。
    フィン感も近いうちに有料化をするつもりなのです。ただ無料でも利用できますし、クリエイター支援のような形態ですけどね。
    私が感想執筆のことを、納品する業態ではなく、支援を求めるクリエイターとして捉えているということなのかもしれません。
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    (間違っていったん書いたものを削除してしまいました……。とほほです。思い出しながら書いてます)

    はい。私は「つまりそれは詩では?」と言いたかったわけではなく。お気を遣わせてしまいました。私も、作者が小説と思って書いたのであれば、小説なのだと思います。

    コンクリート・ポエトリー、少し聞きかじっただけですので、深いことは言えないのですけど。ただ単純に、面白いな~と思って見ていました。私は物語が好きですけど、一方で、こういう文章の意味さえも解体してくような表現方法に惹かれたりします。実際、文字を見ているとまったく別のものに見えることがありますし。自分でやろうとは思いませんけど。

    >パソコンで「あ」を一気に百回打った場合と、パソコンで「あ」を一日一回計百日かけて打った場合

    面白いです。ただし、何も知らない人が見て、百日かけて制作した大作に見えるかどうか――は別として、その感覚はよく分かります。

    「四季(前展)」読みました! なるほど、これが東南東の作品なんですね。こちらも面白かったです。

    これ、ひとつのセンテンスが上の行と下の行の二列で構成されていますけど、上の行だけがつながっていて、上の行の最後まで行ったら、今度は冒頭の下の行に移り、下の行の最後まで行ったら、また冒頭の上の行に移る、つまりループしているんですよね。無限ループですね。実際の季節と同じで。面白いです。

    最初に連想したのが、音楽のフーガという形式です。ひとつのセンテンスの上の行と下の行は同じ季節を表現していますけど、それが追いかけっこをしているみたいで。

    あと、人間って一行だけしか文章を読めませんけど、上の行と下の行を同時に理解することができたら、もっと楽しめるんじゃないかと思ったりしました。というか、何度か読んでいるうちに、実際に上の行と下の行を同時に読んでいるような感覚になっていきました。不思議です。

    繰り返し読んでいると、反復する文章の意味がどんどん解体されていって、でも一方で、四季というものは私の中に溶け込んでしまっている概念なので、それが自然と反応して、上手い具合に意味がなくなりつつ、上手い具合に意味が残っていくという、そんな感じでした。すみません、うまく説明できないのですけど、ええと、とにかくこちらも楽しめました!

    感想書き、以前一度カクヨムの企画で批評を書きますという企画に参加して、批評みたいなものをもらったことがあるのですけど、良い悪い以前に、文章の意味がまったく分からず、困ったことがありました。それ以外で、これまで感想を依頼しようと思ったことはありません。これからも、フィンディルさん以外に感想をお願いしたいとは思ってません。

    フィン感の有料化、感想依頼への対価ということではなく、クリエイター支援という意味合いなのですね。私も後者の方がしっくりきます。支払う側はクライアントではなく、支援者ということですね。私自身、有料化に対してどうするかは決めていませんけど、有料化、うまくいけばいいと思っています。

    ではでは、また!
  • Han Luさん>

    (一回目の投稿時、見ておりました。「あれ、何で消してしまわれたのだろう」と思っていましたが、なるほど。お疲れ様です。ほぼ完璧に再現できてると思いますよ!)

    「四季(前展)」読んでくださってありがとうございます! 方角のサンプル提供にかこつけた作品披露なのではないかという疑惑が。
    Han Luさんの考察どおり、本作は上の行と下の行を同時に読むのを想定しています。
    まず上の行だけを読む、次に下の行だけを読む、そして二行を同時に読む。そういう作品なのです。
    仰るとおり人間は同時に一行しか読めないので、同時に二行を読むと意味をあまり掴めないですよね。カロリーも使いますし。ただ「この文章はただ四季を表現したものだ」という認識と、一度一行ずつ読んだ経験があると、二行同時に読んでもふわっと香る程度に意味を理解できます。
    そうやって読んでいると、どこかの地点で「あ、今の二行の重なり良かったな」「何か今すごく綺麗だったな」というポイントが現れます。想像される情景の重なりといいますか。そうやって二行で感じられる四季の情景は、通常の一行の情景描写では得られない曖昧さと味わい深さがあるんじゃないかと思っています。
    そういう楽しさを目指した作品です。

    作者本人(私)はこの手法を「前展」と呼んでいます。前面展望の略でして、主に列車の先頭部から線路と景色を写した映像構図を指します。
    左右にそれぞれの景色があるが、片方に注目するともう片方に注目できない。左右同時に見ると何となくしか見えず、細かい景色が見えない。その左右を線路が割って、突き進む列車。
    そんな前面展望を文章化したのが手法としての「前展」なのです。上手く認識できないからこその面白さですね。


    という解説を入れると、南南東と東南東の違いが何となくわかるかなと思っています。
    「MultiEnd or RainyDays」では私は解説はほとんど入れませんでした。解説は似合わない、面白いと思うか思わないかそれだけだと考えたので。解説が作品を貶めてしまうという発想も働きますね。
    しかし「四季(前展)」ではしっかりとした作者の解説が入りました。解説を入れて作品の楽しみ方を伝えることが重要だと考えたので。解説を踏まえると、作品をより楽しめるのではという発想も働きますね。
    「MultiEnd or RainyDays」は手法を取りいれた感性、「四季(前展)」は感性を取りいれた手法、みたいな違いでしょうか。
    Han Luさんがフィン感を受けて「そして、扉は閉まる」を解説をされたのも、「そして、扉は閉まる」が北東で東に近いからなのかな、と思いました。

    そして「MultiEnd or RainyDays」も「四季(前展)」を楽しめるHan Luさんに嬉しく思います。ありがとうございます。


    ―――――――――――――――――――
    これからも、フィンディルさん以外に感想をお願いしたいとは思ってません。
    ―――――――――――――――――――
    嬉しいです! ニヤニヤしちゃいます。
    その、文章の意味が全くわからない批評、どういうふうにわからなかったのでしょうか? 使う語彙が難しすぎるとか、自分の世界だけで話しているとかでしょうか……。
    気になります。

    応援ありがとうございます! 有料プラン、上手くいくことを願うばかりです。
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    (ほぼ完璧に再現できてました? よかった。私、たまにやってしまうんですけど、しばらくショックで呆然としてしまうんです)

    私としては作品披露、ぜんぜんOKです。『四季(前展)』すごくよかったです。最初二行をほぼ同時に一緒に読もうとして、でも無理、ってなって、一行目だけを読み始めました。で、つながってることが分かって、二行目も読んで、最後に、これもしかして同時に読めちゃう? って感じでした。私の解釈、作者の意図と食い違っていなかったみたいで、よかったです。

    また何度か読んでみました。私は冬の場面が好きかなー。特に「枝に憩う雪」のセンテンス。「街並みは透き通り」「痺れた水」「埃が金属叩く音」「凍った土」の流れとか、いいですよね。ほかの部分もそうなんですけど、言葉の持つイメージがどことなくつながっている感じの単語が上下に並んでいて(「透き通り」と「水」、「金属叩く」と「凍」とか)、それらを目で追っていくのが心地いいです。

    それぞれの単語の持つイメージの喚起力をどのように感じるか、感じられるかで、楽しみ方が変わってきそうです。

    そうそう、「前展」の意味を聞こうと思って忘れてました。「前面展望」という言葉は初めて知りました。でも、私も電車の先頭部からの眺め、見るの好きです。あれ、子供、好きですよね。みんな先頭に行きたがる。私もがっつり見たいんですけど、さすがに子供とは争えないので、遠慮しています。ちなみに、くるりというバンドの『赤い電車』という曲のPVが、京急線の三崎口駅から品川駅間の前面展望の二倍速映像で、むっちゃ楽しいです。

    ええと、話が逸れましたけど、「前展」の意味、理解しました。なるほどです。確かに、前面展望を見ているときは、左右の景色をきちんと認識していません。というか、実際に前面展望の景色を見ているときって、左右の景色はその存在すらほとんど意識していない気がします。では、あの前面展望の楽しさって、なんなのでしょう。これまで深く考えたことはなかったですけど、前面展望の楽しさの正体はどこにあるのか、ちょっと気になります。

    南南東と東南東の違いもなんとなく分かりました。東南東は解説の入る余地があるんですね。実は、ぶっちゃけて言いますと、『四季(前展)』を読んだとき、一瞬、「方角とか別にどうでもええわ」って思っちゃいました。方角のことを考えるのが面倒になるくらい、面白かったのです。でももちろん、方角の考え方は、楽しいですし、一つの作品に対してお話しやすいです。

    もうひとつ実は、なんですけど、フィンディルさんのもう一つの前展『二人(前展)』も読みました。手法は前展で『四季(前展)』と同じですけど、内容はかなり違いますよね。物語の要素が強いです。これ、方角はやっぱり東南東なのでしょうか、それとも、東北東なのでしょうか。これは、『四季(前展)』とはまた違った面白さがありますね。特に、小説の視点(人物)という観点で見ると、興味深いです。

    ところで、「文章の意味が全くわからない批評」ですけど、とにかく文章が難解で、使う語彙も難しかったですし、持って回った言い方で、何を言いたいのかさっぱり分かりませんでした。『小清水君に教えてあげて』という小清水君シリーズをまとめた連作短編集を出したんですけど、とにかくとことん否定されてました。とにかく否定していることだけは分かりました。でも正直意味が分からないので、なんとも思わないというか、思えないというか。なので内容はほとんど覚えてないのですけど、唯一覚えているのが「読者に委ねすぎている」みたいなことを書かれていたような(うろ覚えです)。確か、辛口、甘口を選べるようになっていて、辛口を選んだと思います。もうお名前も覚えてないですし、最近企画でも見かけないので、もうカクヨムにはいないかもしれないです。と、そんな感じでした。いろんな人がいますね。

    ではでは、また!
  • Han Luさん>

    (ああいうのって不思議ですよね。消す動作のときは頭ぼーっとしてるのに、消した瞬間「あ!」ってなります。私は服を脱いで風呂場に入った瞬間に「あ、シャンプーの詰め替えしないとだった!」となることがよくあります)

    おー、「四季(前展)」がHan Luさんに刺さったみたい。嬉しいです。
    イメージがどことなく繋がっている言葉や文章が上下に流れるというのは意識したところです。色で例えるなら「上は赤、下は青」ではなく「上は緋色、下は茜色」のように文章を配置しています。対比ではなく二層、みたいなイメージですね。
    後はタイミングも揃うところもあれば少しズレているところがあって、そういうところに情景らしい妙を表現しています。

    「赤い電車」のPV見ました! やっぱり前面展望はいいですね。二分のなかでも早い二分でした。
    前面展望って時間を忘れて見入っちゃいますけど、確かにどこに惹かれているのかって難しいですよね。
    線路が曲がっているときは線路の曲がりに目がいきますが、直線のときは左右の景色が流れる感じを見ている感じがします。
    「あ、右の森綺麗だな」じゃなくて「左が家ー、と思えば右は森ー」みたいなそういう変化を楽しんでいるのかもですね。
    それとやっぱり車窓の景色にしては抜群に情報量が多いのが、何をではなく全体を何となく楽しんでいる感じもします。

    ―――――――――――――――――――
    実は、ぶっちゃけて言いますと、『四季(前展)』を読んだとき、一瞬、「方角とか別にどうでもええわ」って思っちゃいました。
    ―――――――――――――――――――
    「方角とか別にどうでもええわ」が「四季(前展)」への褒め言葉であると私に伝わるだろうと考えてくださったこと、嬉しいです。私を信頼してくださっている。
    「四季(前展)」は作品の方角のサンプルとして出されるような作品ではなく、「四季(前展)」として出されるような作品であると考えてくださったのですね。ありがとうございます。
    「四季(前展)」は八年前に書いた作品なのですが、私のなかでも力を入れた作品なので嬉しいです。さっぱり評価されなかったですけどね。さすが東南東。

    「二人(前展)」も読んでくださってありがとうございます! Han Luさんが私の作品を漁ってくださっている。
    あちらも前展作品なのですが、出そうとしている面白さは全く違いますね。前展の手法としての面白さがよりわかりやすく伝わるかなと思います。物語は王道ですね。
    Han Luさんが嫌ってらっしゃった「~Side(人称視点主の切り替え)」をぐわっと洗練させたという見方もできるかもしれません。「一方その頃」「~Side」が常に上下で展開しているような状態。作者のタイミングではなく読者のタイミングで細かく視点切り替えを行うのです。あるいは二視点を同時に読む。
    そして鋭い。方角は東北東判定です。


    なるほど、よくわからない批評は文章が難解という意味だったのですね。
    文学的語彙は私よりもHan Luさんのほうがずっと豊富だと思っているのですが、そのHan Luさんがさっぱりわからなかったのならば多分私にもさっぱりわからないと思います。
    でも多いですよね。文章が難解で意味がわからない批評。筆者の読書量が多くなればなるほど、筆者が批評を名乗れば名乗るほど、そういう傾向があるような気がします。そして何を書いているのかさっぱりわからないから、正しいこと言ってるのかも? っていう気になっちゃう。
    ああいう感想は私には書けないですし、書こうとは思わないです。私は、難解な批評よりも理解しやすく、しかし難解な批評よりも内容は高度。そんな感想を書いていきたいです。
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    (シャンプーの詰め替え! 私もよくやります。腹立たしいのは、懲りずに何度もやってしまうことなんですよね。冬とか、最悪です。最近よくやるのは、電子レンジでチンするとき500Wのつもりが750Wでやってしまって、あちちってなるというやつです)

    「四季(前展)」、刺さりました。といいますか、読ませていただいた4作品とも良くて。なんとなくなんですけど、この4作品を読んでぱっと思ったのが、「個展、開いたらいいのに」ということでした。PCの画面上や本という紙面上で楽しむのもいいですけど、ギャラリーのような場所で多くの人の目に触れるような形での表現が向いている気がしました。

    ただ、単に視覚的な楽しみ方ではなく、ちゃんと読み物として理解しなければならないので、見る人がゆっくりと眺める環境でなければなりませんけど。大きな壁面に表示して、それを座ってゆっくりと読んでいる、そんな状況で体験してみたいと思いました。あと、文字を投影させたり、何か別の要素と組み合わせたり、といったインスタレーション的な表現方法とマッチしている感じもします。って、すみません、これらは勝手な私の解釈、というか妄想ですので、いやいやちがーう、ということであれば読み飛ばしてください。なんにせよ、それくらい作品としての広がりや強度を持っていると思ったのです。評価されなかったというのが解せません。

    ところで、教えていただいたFC2のサイトを見ると、2019年以降は感想ばかりになっていましたけど、最近小説は書かれていないのでしょうか?

    前面展望、確かに景色の情報量が多くて人間の処理では追い付かないですよね。そこに面白さの要因があるのかも。あと、私は景色だけじゃなくて、自分が前に進んでいることの感覚を楽しんでいて、しかもそれは時間(現在と過去と未来)という概念とも結びついているような気がしています(うまく言えない……)。

    『二人(前展)』はやっぱり東北東でしたか。「~Side(人称視点主の切り替え)」が嫌いなこと、覚えていただいてたんですね(なんか、嫌い、ばっか言ってる気が……)。ええと、読ませていただいて、真っ先に思ったのがやはり人称と視点のことです。人称視点主が二つですけど、同時に存在している、なるほどーと思いました。しかも完全に時間がシンクロしていて、それだけでなく、二人の心情もシンクロしている。面白いです。「~Side」の問題とか、もう完全にどこかに吹き飛んでしまいました。

    これを別々の章立てにして視点人物を変えて、書けないことはないですけど、ちっとも面白くないですよね。あと、映像作品では画面分割という手があるのですけど、長い時間、両方の画面を追い続けることは難しいので、こういうテーマはこのような文章表現のほうが優れているのかもしれないと思って、それが私的にはちょっとした発見でした。視点人物のことを考えるとき、私はいつも「映像作品って視点主をコロコロ変えられていいよなー、楽ちんで」と思うので。

    もともとあまり批評のようなものは読まないのですけど、たぶん一見小難しそうな文章の方がありがたがられる傾向はあるのでしょう。難しい文章の方が深いことを書いていると勘違いされやすいのかもしれません。そんなことはないのに。フィン感はすごくわかりやすいのに、内容は非常に高度だと思います。

    でも、最近はそんなことはあまり思わなくなりましたけど、以前は自分の文章(小説含めて)には深みがないなーと、少しコンプレックスを持っていたことがありました。世の中には表現が複雑かつ内容も深い、という文章もやっぱり存在しますし、特に若い頃ってそういうのに憧れますよね。今はもう別にそういうのを書きたいとは思わないですけど。ただ、謙遜ではなく、文学的語彙、豊富かなー? とは思ってしまいますけれど(もちろんそう言っていただけるのは嬉しいのですけれど!)。

    ではでは、また!
  • Han Luさん>

    (何度もやってしまいますよね……。そして判断が分かれそうなのが、そのときにまた服を着て詰め替えを取りにいくか、また明日にしようと少ないシャンプーをぽすぽす押すか、ですね。私は後者です。500Wと750Wもありますあります。)

    四作品?
    「MultiEnd or RainyDays」「四季(前展)」「二人(前展)」の他にもう一作お読みになったということでしょうか?

    個展! 面白い発想ですね。
    刊行物ではなく展示物向きなのですね。なるほど、面白い発想だなあ。
    確かに東や南の作品は展示向きかもしれませんね。また私の作品は文字数的にもそうかもしれないです。
    それにその発想自体が、私の作品への賞賛のように思えます。ありがとうございます。
    作者としては品質に満足していないので仮に実現可能であっても待ったをかけますが、そう仰ってくださるのは嬉しいです。
    評価されなかったのは、単純に出す場所がお門違い感があったからかもしれないです。
    なのでちょっとカクヨムに出してみようかなあという気持ちがむくむくしてます(ちょろい)。

    最近小説は書いていないのですよねー。感想に集中していて。
    そうでなくても私は寡作タイプでして、あんまり数がないのです。
    小説以外だったら、チャットで遊ぶゲームブックみたいなものを制作しています。こちらは結構大作。
    Han Luさんにそう仰っていただいてまた書こうかという気持ちもむくむくしているのですが(ちょろい)、フィン感のクリエイター支援が開始するにあたってフィン感以外の創作に時間を費やしていいのか? という気持ちもあります。

    確かに前面展望には時間という概念が結びついている感じありますね。
    だって前面展望の逆再生を想像してみたら、めっちゃタイムリープしている感じが出てきますもんね。
    横だけの景色だけだったら「あー電車が戻ってるなー」だけですが、前面展望だと「過去にタイムリープしてる!」という感じになりそう。

    Han Luさんが「~Side」をお嫌いなのはその性質というよりも、「簡単にできるから」というのが理由だと思います。簡単に大がかりなことができちゃうから。
    その点、前点は簡単にできることでないのは明白なのでHan Luさんも面白いと感じてくださるのではないかなと。
    それに既存の手法ではなく、私が編みだした手法ということもあると思います。もしこの世に「~Side」手法が存在していなければ、Han Luさんはきっと「~Side」手法を肯定していたのではないかなと。

    文章の前展と映像分割の比較は面白いというか、私が言い漏らしていたことです。
    二視点の同時並行という共通点はあるのですが、文章の前展のほうがカロリーの高い内容を流せるのです。その理由は進行速度を決めているのが作り手か受け手かという違いです。
    映像分割は映像が勝手に流れていくのでカロリーの高い内容が一気に来ると鑑賞の調整ができず、疲れてしまうのです。ですが文章の前展は読み手が速度を決められるので、カロリーの高い内容も読み手が自由自在に鑑賞の調整ができる。映像でいう巻き戻し再生コマ送り巻き戻し再生コマ送りを、文章だと自由自在にできるのですね。
    そういう意味で文章の前展は、映像分割よりも内容の制限を受けないと考えています。

    ―――――――――――――――――――
    フィン感はすごくわかりやすいのに、内容は非常に高度だと思います。
    ―――――――――――――――――――
    嬉しいです(褒めてくれと言わんばかりの振りだった)。
    ああ、うんうん。ありますよね。すごいことが言いたいとか、深いことが言いたいとか。
    身につくなら、そう願わなくなったときにいつのまにか身についてるものなのかもしれませんね。
    「インスタレーション? 何だろう初めて聞いたな検索しよう」と思った私からすると、Han Luさんは十分文学的語彙(創作的語彙)が豊富だと思います!
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    (私の場合は、少ないシャンプーをぽすぽす押す日が二日ほど続いて、いよいよ、となって服を着て詰め替えを取りにいくパターンですね。最悪ですね。ぽすぽす押して、でもお風呂からあがったらそのことをすっかり忘れているのはなぜなのでしょう。謎です)

    『MultiEnd or RainyDays』はふたつでひとつの作品なんですね、失礼しました。なのですみません、3作品です。でも実は、『夕日』と『あの日』という作品も読んでいるのでした。

    まず『MultiEnd or RainyDays』を読んだとき、自分がギャラリーのような場所でこの作品を読んでいる光景が浮かんだのです。そのあと『四季(前展)』『二人(前展)』を読んで、ますますそのイメージが補強されました。フィンディルさんの求める品質がどのくらいなのかは分かりませんけど、この3作品、私は多くの人の鑑賞に耐えうるものだと思っています。最近はアマチュアの作家の作品を積極的に紹介する小さなギャラリーが増えていて、私もたまに足を運ぶのですけど、値段も手が届きやすくて、ありがたいです。ネームバリューなんて一切ないですから、作品の価値は自分自身で判断するしかなくて、それがとても楽しいのです。

    カクヨムは……ご存じの通り、良くも悪くもカドカワですから、超商業主義です。人気のある作品(ランキングや★の数を見ていただければ……)も押しなべてああいう感じなので、正直に言って、この場所であればお門違い感がないかというと、難しいものがあると言わざるを得ません。でも、フィンディルさんの作品が少しでも多くの人の目に触れてほしいと思っているので、うーん、という感じです。

    「チャットで遊ぶゲームブックみたいなもの」って、テーブルトークRPGをチャットでやる感じでしょうか。確かに、フィン感のあのボリュームと内容を知っているので、同時に小説を書くというのはかなりしんどいだろうなーと思います。でも、読みたいですけど(読者は常に勝手なのです)。

    前面展望の逆再生、あーなるほど、そうですね、まさに「過去にタイムリープしてる!」って感じです。鉄道や線路って時間という概念との相性がいいんですね。ってうか、旅だから? だからたぶん『銀河鉄道の夜』(『銀河鉄道999』も)、なんでしょうね。

    「~Side」は「簡単にできるから」嫌いというのは、ありますね。以前、『そして、扉が閉まる』のフィン感のときに「~Side」の手法をハリウッド映画に例えられてましたけど、非常によく分かる例えでした。もちろん、そういうゴージャスな手法が適した小説もありますけど、例えば日常サイズのお話で「~Side」が出てきたりすると、私は明らかに作者の手抜きだと思ってしまうのです。いやいや、そこはちょっと工夫しろよ、と。自分でも狭量だとは思うのですけど。この世に存在していなければ……どうでしょう。私は、フィンディルさんのその発想自体が面白いなーと思ってしまいます。

    映像分割はむちゃくちゃカロリー消費しますよね。実は、私は映画やアニメの画面分割の手法がすごく好きで、あれが出てくるだけでテンションがむっちゃ上がるんですけど、ずーっと同時進行でって、あんまり見た記憶がないです。もしかしたら実験的な手法としてはあるのかもしれませんけど。文章表現は映像表現に比べると制約が多くて難しい(だから面白い)と思っていたのですけど、これまで気づかなかった文章表現の可能性をみた気持ちになりました。

    文学的語彙(創作的語彙)――私はちょっと興味を持ったらすぐにホイホイと節操なく食いついてしまうので、だからなのかと。でも、広く浅く、なんです。何も極められていない。一つの道を極めるって、すごく憧れます。

    ではでは、また~。
  • >Han Luさん

    返信が遅れました!(ずざざざ)
    (私はノズル外して、たらーっ、まで粘ります。何故か忘れちゃいますよねー。詰め替えを常に脱衣所に保管しておけば解決なんでしょうけどね!)

    そうです「MultiEnd or RainyDays」はあれで一つの作品です。二つの作品からなる作品集ではないのです。
    互いに独立した作品のようで、実は互いの存在を前提にしているのです。もちろん、どちらが良かったーという読み方も良いですよ! 作者としてはそういう前提ですというだけです。

    そういうギャラリーがあるのですね! 知らなかったなあ。確かにそういうところに置かれていても場違い感はないかも……。
    南向きの作品は合いますし、東向きの作品も作品によっては似合いますね。
    逆に西向きの作品は一人で部屋でじっくり読むのに向いてるなと思います。方角による鑑賞スタイルの違いも面白いですね。

    あーうーん、カクヨムでの発表は微妙ですか。
    筆致企画の交流の感じを見ていると、むしろ向いているのかなとも思ったのですが、サイトで考えると商業的なのですね……そうか。
    私のなかで、カクヨム=筆致企画なんですよね。創作者達が王道独創あわせて楽しんでいるなという印象があったのです。
    また気持ちがむくむくしてきたら考えてみます。

    テーブルトークRPGをチャットでやる感じ、雰囲気は似ていると思います!
    フィン感書いてると作業数が少ない日(感想を発表したり作品を読んだりする日)は頭休めたくなっちゃうんですよねえ。ゲームしたりして。
    上手く操作すれば小説も書けなくはないんでしょうけど……。

    「~Side」を使って面白いことをする、「~Side」を使って面白い話を作るだと目にはつかないだろうと思います。
    ただ普通の話を「~Side」を使うことで面白くするだと目につくだろうと思います。
    要はその作品の面白さの核が、「~Side」を土台にした先にあるのか、「~Side」それ自体なのか。
    前者は良いのですが、後者はもっと工夫しなさいってなっちゃいますね。これは「~Side」にかかわらず、普及している手法全てに当てはまると思います。

    やっぱりHan Luさんは特殊な手法がお好きなのですね。私も映像分割好きです。
    アニメと漫画の関係でも似たようなことが言えると思うんですけど、作品進行の動力源が自分なのか作品なのかというのは鑑賞として入れられる容量に大きな差をもたらすと思います。


    そしてHan Luさんにお誘いです!
    Han Luさんはツイッターのアカウントを持ってらっしゃらないと思うのですが、持ってみませんか?
    ツイッターだと非公開のやりとりができて便利ですし、交流したいときに交流ができますし!
    カクヨムの方も沢山いらっしゃいますし、私ももっとHan Luさんとお話がしたいな~と思っています。
    何か意図があってアカウントを持たないことを選択されているなら別ですが、そうでないなら検討していただけると嬉しいです!
  • フィンディルさま。こんばんは~。

    返信のことはまったくお気になさらず! ゆる~い感じで大丈夫です。
    (蓋を外してお湯を入れて薄めるという封印されし禁断の技に手を出したことがあるかどうかは秘密です)

    西向きの作品は完全に部屋で一人で読むタイプの作品ですよね。ある意味それが小説というものの原点(のひとつ)という感じもします。私小説ってたぶん西向きですよね。これもフォローしている方の受け売りですけど、確か日本の近代小説っていかに「私」を書くか、ということに腐心してきたということらしい(うろ覚えです)ので。

    カクヨムの自主企画の中で、筆致企画は極めて珍しい形だと思います。ここまで参加者が充実したやり取りを行えている企画を私は見たことがありません。あまり積極的に企画を覗いているわけではないので、断言はできませんけど。ただ、フィンディルさんの作品が単純にたくさんの人の目に触れてほしいという気持ちはやはりあるので、決して無駄なことではないと思います。もっと適した場所があるはず、という気持ちも変わらずありますけど。

    自分ではあまり意識はしていなかったのですけど、そうですね、確かに特殊な手法は好きです。おおーって思っちゃいます、純粋に。もちろん、それがうまく機能していれば、ですけど。こういうのって、もともと私が持っている資質みたいなものなんでしょうか。考えてみたら、いつからそういうことを意識しだしたのか、よく分からなくて。

    鑑賞として入れられる容量、よく分かります。「作品進行の動力源が自分」の場合って、「原動力が作品」の場合と比べると、一見不自由な感じだと思うんです。自分自身で進めていかなければならないので(原動力が作品だと、どちらかというと受け身な状態で進んでいきますよね)。でも、その代わりに、「作品進行の動力源が自分」の場合は、余白や遊びのような部分が多くて、それによって作品進行の主導権が自分側に移行しやすいのだろうと思います。鑑賞として入れられる容量というのは、私はすなわち、鑑賞する側が想像する(想像できる)部分だと思っています。そういう意味では、小説というのは非常に豊かな表現方法だと言えるのではと。もちろん映像には映像ならではの素晴らしさがありますし、映像作品もすごく好きなのですけど。

    ツイッターですか……。ううう。ツイッターをやっていないのは、特に大きな意図があるわけではなく、別につぶやきたくないし、他人のつぶやきも聞きたいとは思わなかったからです。ツイッターでやりとりしたいと思った人もいませんでした。私も、フィンディルさんとはこれからもいろいろとお話したいと思っています。ただ、カクヨムの方たちとカクヨムの外でまで交流したいとは思っていません。すみません、偏屈なヤツで。とかなんとか言っておきながら、しれっとアカウント作っちゃうかもしれませんけど。せっかくお誘いいただいたので、検討してみます。でもたぶん当面は近況ノートでのやりとりになるかと思います。わがまま言ってごめんなさいです。

    ではでは、また~(返信はごゆるりと~)。
  • Han Luさん>

    (私はその封印されし禁断の技に手を出したことあります……。どうなったか? やめてください! 語るもおぞましい……)

    「私小説」は西の傾向がありますが、「私小説」だから西かというとそれは別だと思います。
    作品の方角は飽くまで作品を見て読者がどう思うのかなので、「私小説なのかそうでないか」という作者視点の正解で左右されるものではないと思うからです。
    ただ「私小説」を書く動機は昇華であることが多いと思うので、その内面が作品に表れて西向き作品と判断されることは多いと思います。
    方角として西と東は正反対だけに両方楽しめる人はそんなに多くないと思うんですけど、Han Luさんはどうでしょうか? フィン感作品でいえば水木さんの「葉桜の君に~虹を渡れば~」が西北西、ふわゆーさんの「想うこと、その憤り」が真西、私の作品でいえば「僕は消しゴムの後を浚う」が西南西です。楽しめますでしょうか?

    筆致企画の空気感は好きなんですよね。私は文芸サークルに入ったことはないのですけど、こういう空気感なのかなあ? と想像したりします。そういうような雰囲気を筆致企画に感じます。
    フィン感があれこれ落ち着いたら何作か出してみてもいいかもですね。

    動力源が作品の場合は受け手は何もしなくても作品は進んでいきますが、動力源が読者の場合は読者の協力なくしては作品は成立しませんからね。それだけにやりやすいことややりにくいことはあると思います。
    私は小説しか制作したことはありませんが、映像制作もされたHan Luさんならばその違いがつぶさにわかるのだろうと思います。

    ツイッターの件、了解しました! 謝る必要は一切ないですよ、本当に。
    合っている人ならば息をするようにできるSNSですけど、そうでない人にとってはアカウント運営みたいで精神力使いますものね。
    せっかく誘われたからと無理にアカウント開設しても疲れてしまうだけかもしれないです。
    私としてはHan Luさんと非公開でやりとりできる方法がほしかったので(自白)、では、ピクシブの非公開メッセージでやりとりする許可をいただけないでしょうか?
    何をあれこれ話すというわけでもありませんが、「それもちょっと」と思われたならば断わっていただいてかまわないです。

    ではまた!
  • フィンディルさま。こんにちは~。

    (やはりそうでしたか……。ほかにも封印されし禁断の技はありそうですけど――特に食べ物関係とかで――お互い無駄なダメージを受けそうなので言及は避けます。あ、でも、レトルトのソースとかあるじゃないですか、あれ、縦に半分、さらに半分って折りたたんでいくと、袋に残らず絞り出せるんですよ、っていう禁断でもなんでもない技を思い出しました)

    なるほど、確かにそうですね、「私小説」だからといって西向きとは限りませんね。結果的にそういう場合が多いかもしれませんけど。で、挙げていただいた西向き作品ですけど……残念ながら、実はどれもピンとこないのです、私には。例えばフィン感を読んで、フィンディルさんがどういう部分を評価されていて、どうして評価されているのか、頭では理解できるのですけど、自分の実感として、すごい、とか、面白い、とは感じられない、というか……。フィンディルさんの守備範囲の広さには、純粋に感服しています。

    文芸サークル、私も入ったことはないですけど、そんなイメージしますね、筆致企画。私はそれほど文芸サークル的な空気感が好きなわけではありませんけど、筆致企画はついつい参加してしまいます。刺激は受けますよね。フィンディルさんの企画作品、いつか読んでみたいです。というか、別に企画作品でなくても、新作を読んでみたいと思っています。

    小説を書いていても、いろんな場面で映像作品というものを意識してしまいますし、それぞれの表現方法の違いなんかはよく考えたりします。小説って、ものすごく不自由な表現方法で、でも、たった一人でもできるから、これをやってる――私はおおよそそんな感じで小説を書いていたのですけど、今回のフィンディルさんとのやりとりを通じて、なんとなく別の見方もできるなー、などと思うようになりました。嬉しい発見です。

    ピクシブの非公開メッセージ、そんなのあるんですね、知りませんでした。やりとり、ぜんぜんOKです。どうすればいいかまた教えてください。

    ではでは~。
  • Han Luさん>

    昼のHan Luさんだ!
    (特に公開でやりとりするとダメージは大きそうですね……ふふ、「これ以上戦っても死人が増えるだけだ」状態になっているのが笑ってしまいます。あ、私は割りばしで挟んでぴーってする派です。)

    あー予想はしてましたけど、西向きは楽しめなかったですか。なるほど。
    個人的に南と西って似通ってる部分あるなと思ってたんですけど、やっぱり違うんだなと思えて面白いです。
    じゃあ北北東と北北西の作品でも面白さを感じる度合いは違うのかしら……? どちらもほぼ北なので楽しめるとは思うのですけど、そういえば北北東のほうがより楽しめる、みたいな。

    私も実は文芸サークルの空気は(予想ですが)好きなわけじゃないんですよね。
    筆致企画はその点、適度な距離感があるのかもしれないですね。どうだろうか。
    Han Luさんに新作を望まれると気持ちが揺れてしまいます……が、フィン感の現状を見ると余裕もないし得策でもないというのが正直なところです。
    余裕があったら何か書いて、あむあむあむにぽんと置くくらいはありかなと思ってます。

    確かに小説は基本一人で行う創作ですよね。漫画や絵では分業もありますし、映像なんかはチーム前提で。その点小説は、一人が基本。
    だからできることやできないことがありますが、そこに不自由や限界を感じるのは自然かもしれないです。
    でもそれとは別に、やっぱり小説だからできることやりやすいことというのはあると思いますよ、うんうん。何かはちょっと今は出てきません。

    わーい! ありがとうございます!
    フィン感有料プランで非公開チャットで感想を伝えるという機能を入れる予定ですが、それをピクシブのメッセージで行う予定なのです。
    私がHan Luさんにメッセージを送ったらメッセージ通知が出ると思うので、ピクシブにログインしておいてください! ありがとうございます!
  • フィンディルさま。おはようございます。

    朝のHan Luです。
    (割りばしかー。そっかー。手でやると、最後、指についちゃいそうになって、不完全燃焼な感じなんですよね。今度、合わせ技でやってみよう)

    私の勝手な感覚では、やっぱり西と南は違う、っていう感じです。南って、抽象性がポイントですよね。具象を抽象化するのって、高度な技術か、プリミティブな力か、とにかくなにがしかの大きな何かが作用しなければ難しいと思っていて。私は、南のそういう部分に惹かれます。

    あ。北北東と北北西では、確実に北北東の方が楽しめます。これまでのサンプルに限ってなので、確実にそうとは言い切れませんけど。方角だけじゃなくて、その書き手の持っているいろんな要素が、楽しめる要因になっているでしょうから。

    小説は基本一人で行う創作、という話にも関連するのですけど、文芸サークルの活動って結局は各個人単位の活動の集まりですよね。そこで意見の交換がなされたとしても、集団でひとつの物を作る場合とはやっぱり違っているでは、と(想像ですけど)。集団で物を作る場で発した意見は、建設的であれ、否定的であれ、結局のところ自分に跳ね返ってきます。自分もその作品に対する責任の一端を負っているわけですから。たぶんそこが、私が感じている大きな違いという気がします。やっぱり集団で物を作るのって刺激的だし、楽しいです(もちろん、しんどいこともいっぱいありますけど)。でも、文芸サークル的な存在が出てくる作品を読んだりするのは好きですよ。

    小説だからできることやりやすいこと――なんでしょう、私もぱっと思いつかない。手っ取り早く、お金がかからないくらいしか。もちろん手法・技法的なものはありますけど。あれ。小説って……。

    もしも余裕ができたら、フィン感の合間を縫って、ぜひ、あむあむあむにぽんと置いてください。読みに行きます!

    ではでは、また~。
  • Han Luさん>

    わーい! 朝のはんるーさんだ!
    朝、昼、夜、深夜のはんるーさんは揃えたので、後は夕方と早朝のはんるーさんですね!
    (料理途中で指についちゃうと嫌ですよね。付属の調味油なんかを開けるときに指に油がつくかどうかは、調理満足度に大きく影響します。中断して手を洗わないと気が済まない)

    確かに南は、物語や骨格で魅せることができないので、高度な想像力と文章技術が必要だと思います。
    計算や理屈で立てられる要素なしに魅力一貫で進むことになることが多いので、理解のある読者でも「やろうとしていることはわかる」止まりになっちゃいがちだろうと思います。
    西も難しくて、昇華する人格を生々しい状態で脳内に宿して、それとは別に俯瞰の人格も宿して……というバランスが必要になることが多いだろうと想像しています。昇華人格が強すぎると西作品として凡庸なものにしかならない(内面を吐露するだけの作品はありふれているので埋もれる)ですし、俯瞰人格が強すぎると作品然としすぎちゃって北向きになっちゃうのです。
    小説書きとして経験を積んで安定してくるとかえって難しくなるのが西作品だと思います。

    やはり北北東なのですね。面白いなあ。もちろんフィン感応募はサンプル数も少ないですし、色々な要素が絡まるのは当然ですけども。
    もっとサンプルが集まってくると、北北東よりも北東のほうが好きだみたいなことも見えてくるかもしれませんね。北北東や東北東よりも北東のほうが好きだとなるとなお面白くなる。
    私の方角判断の精度も上げねば……。

    確かに確かに。自分が制作に関わらない作品への意見と、自分が制作に関わる作品への意見は大きく違ってきます。極論、前者は「面白くなってもらう必要がない」のですが後者は「面白くなってもらう必要がある」ので、意見の内容が変わってくるのです。
    「面白くなってもらう必要がある」場合は、指摘などは内容や言い方も含めて忌憚のないものになる。半ば自作評ですからね。ただ完成を前提にしているので、現実的に到達できるレベルの指摘に留まりがちだろとも思います。一方前者は「面白くなってもらう必要がない」ので一定の礼節と距離感をもった内容と言い方になる。ただ完成を前提にしていないので、求めるレベルは青天井になる。
    また「面白くなってもらう必要がある」はあんまり褒めにエネルギーを割かないということもあります。「面白い」とか総評としての肯定はしますが、細部にわたってどこがどう面白いと言及するということはない。半ば自作語りになってしまうので。一方前者はどこがどう面白いと細かく言及することがある。それはそれで評という一作品が成立しますから。
    こういうのは感想書きと編集者の関係性でも似たことが言えると思っていて、一般的に編集者のほうが指摘が厳しいというのはレベルがどうこうということではなくて立ち位置が違うからだと思っています。編集者は作品に「面白くなってもらう必要がある」のですが感想書きは作品に「面白くなってもらう必要がない」。
    なので素晴らしい感想書きを褒めるときに「もはや編集者レベル」みたいなフレーズが使われるのを見ますが、感想書きは感想書き(あるいは批評家)として褒めてほしいなあと思ってます。
    みたいな違いを私は感じています。

    でも他の創作で考えても、これでしかできないというものはないような気もします。
    相対的にどうである、というような細かな違いがあるだけなのかなあとも。

    はんるーさんを楽しませる作品ならば、東か南かーと考えてます。一応、数年眠っている作品の種はあるのです。余裕があれば!

    もっと色々なことを話したいです。話題があれば投げてください!
  • そ、早朝のHan Luです。おはようございまーす。
    (あー。私はですねー。舐めますね。面倒なのもあるんですけど、味がわかるじゃないですか。その調味油だけの味が。と言い訳してみる。フィンディルさんって几帳面だなー)

    やっぱり、私は西が一番イメージできない感じです。昇華する人格……。私のなかのこういう場合の昇華のイメージって、ネガティブな感情をポジティブに変化させる感じなんですけど、そういう感じでしょうか。つまり、西を書く人は、小説を書くことで自分のなかで何かをプラスに変えようとしているわけですね。そして、それだけではなくて、小説として成立させるために作品を俯瞰する人格も宿していなければならない、ということでしょうか。む、難しい。なんか、西が一番難しい気がしてきました。

    自分が制作に関わらない作品への意見と、自分が制作に関わる作品への意見の違い、フィンディルさんの文章を読んで、フィンディルさんは物事をフラットに考えられる人だなーと、改めて感じました。それぞれの場合の良い面と悪い面とをバランスよく比較していてとても分かりやすいです。方角もそうですよね。すべての方角に対して同じくらいの感度がないとだめだということですもんね。私はどちらかというと、偏ってしまいがちな性格なので、非常にうらやましいです。これって持って生まれた資質なのでしょうか。

    編集者と感想書きの違い、私もその通りだと思います。そのふたつは全然違いますよね。あと、編集者は「売れてもらう必要がある」っていうのがあると思います。「もはや編集者レベル」って、私なら、あんまりもらっても嬉しくない言葉です。そっちには行きたくない、っていうか。

    あー。私の好みのことは気にせず、ぜひいつか新作書いてください。あ、でも、フィンディルさんの西も読んでみたい気はしますね。なんかでもあれですね、こうやって方角を分析・理解したうえで、これが私の西です、っていうのを書くのってちょっと勇気いりません? 俯瞰人格がしっかりしていれば、そんなことはないのかな?

    え、ええと、わ、話題ですか(突然きょどる)。じゃあ、質問です。フィンディルさんは、商業出版されたものだと、普段どういう小説をよく読まれているんでしょう? ってなんかありきたりな話題ですけれども。もしオープンな場でお答えしづらかったら、ピクシブの方で。

    ではでは、また~。
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