今日は、ちょっとやらかした話。
いつも通り、カクヨムで人の作品を読んでいた。
構成の組み方や説明の置き方、リズムを眺めていると──ふと「あ、AIの構文っぽいな」と感じる瞬間がある。
僕はふだん、「AIと一緒に」物語を作っている側だ。だからこそ、どこにAIの癖が出て、どこを直すと人っぽくなるか、だいたいの当たりがつく。
それで、今日もいつも通り
「あ、この人もAIと一緒に書いてる仲間かもしれない!仲良くできるかも?」
と思って、ついそのまま声をかけた。
結果だけ言うと、相手はちょっと戸惑っていた。
最初は「AIで書いてることを知られたくないのかな?」と思ったけれど、やり取りを重ねるうちに、もう一つの可能性に気づいた。
【そもそも、自分の文章に混ざっているAIの癖に、本人は気づいていない。】
というパターン。
僕みたいに、がっつりAIと毎日付き合っていると、
「ここ、AIが出てる」「ここ、人のクセが勝ってる」というのがなんとなく分かる。
でも、「AIはあくまで校正ツール」「整えるだけ」くらいの距離感で使っている人ほど、癖が出やすい。
中身はちゃんとその人の文章だし、その人の作品。
ただ、構文として現れるときに、AIの影が落ちてしまう。
そして、本人は、それに気づいていない。
今回、僕は「仲間見つけた!」くらいのテンションで話しかけた。
悪気はまったくなかったし、むしろ嬉しくて近づいたつもりだった。
でも、相手から見れば、
「自分が大事に書いた文章をAIっぽいと言われた人」
になる可能性もある。
そこで改めて思ったのは、
観測者001として、「観測」は続けていい。
でも、「確定」はもっと慎重でいい。
ということ。
僕の中では「全部AIに書かせた」ではなく、「全部AIと一緒に作った」
という感覚に近い。
だからこそ、
AIの構文が見えてしまうと
「お、同じ沼の住人か?」と勝手に親近感を抱いてしまう。
でも世の中には、
・自覚のないままAIの癖を取り込んでいる人
・ちょっとだけ補助に使っているつもりの人
・そもそもAIと向き合うという感覚を持っていない人
いろんな距離感の創作者がいる。
観測の深度が深くなればなるほど、
「自分にとっては当たり前の視点」が、誰かにとっては急所になる。
今日はそれを、ちょっとだけ身をもって学んだ一日だった。
潜るのはやめない。
ただ、見えたものを「そういう構造かもしれない」で止めておくのも、観測者には必要なんだと感じた。
そんな、しくじり半分・学び半分の出来事でした。