ほら、私、ハロウィンの自主企画やってるじゃないですか。今年のその企画の参加作品、今回初めて参加している人の作品の書き方がね、新世代だったんですよ。小説のお作法に従っていないし、作中で突然脚本風になったり、何て言うか、そう、自由なんですよ。そう言う書き方から考えて、みんな若いんじゃないかなって思うんですけど、どうなんでしょ。
そう言うのが流行ってるのかなとも最初は思っていたんですが、流行っていたならその話に評価もたくさんされていて然るべきでしょう? そこから考えると、やはり時代がまだその人達に追いついていないようですね。いつかは、そう言う書き方の方がスタンダードになる日が来るのかも知れません。
ただ、こう言う自由な作風ってどこから生まれたのかなって、読みながら考えちゃうんです。普通の小説を読み慣れている人なら、多分目が滑っちゃいますよ。それが作品の評価にも繋がっている気がします。
評価はともかくとしてですね。こう言う書き方の人って普段は小説を読まないんじゃないかなって、そう感じたんです。セオリー通りの書き方を無視しているのは、書き方を知らないだけなんじゃないかと。
ほら、ケータイ小説が流行った時、文法とか独特でしたよね。ズッ友だょとか。ああ言う勢いって、小説が好きで何百冊も読んでいるって人からは生まれない気がするんです。前例を気にしない言葉のアートですよね、よくも悪くも。
勿論これは私の勝手な想像なので、自由な作風の人も読み手側に回ればものすごい読書家なのかも知れません。沢山の本を読んでいるからこそ、その当たり前のパターンに反旗を翻したと。前衛芸術的な。分かりませんけどね(汗)。
もっと小説は自由であるべきと言う信念を持った革命家なのか、それともお作法って何? 何にも知らなーい。って言う自由な人なのか。読み慣れない文体に出会うと、ちょっと戸惑ってしまいます。
ただひとつ言えるのは、自由すぎると評価は得られにくいと言う事です。低評価上等! って覚悟で書いているなら別にいいのですけどね。そう言う作風で読まれないと悩んでいたなら、読まれるためにもうちょっと普通に寄せた方がいいと私は思うんだな。
で、実際どっちなんでしょうね。個人的には何も知らないから自由に書いている説を採用したいところなのですが……。考え、浅いですかねぇ。