ボビー、お前……。
ようし、つぎはギルドだ、ところでギルドって何だ。という所から開始。
また新キャラだよ、どうしよう。ままならぬものよな。
それはそれとして、
新潮文庫の新刊で、村上柴田翻訳堂というシリーズがはじまったらしく、
ウィリアム・サローヤンの名前を久しぶりに書店で見かけた。
おー、なんか久しぶりサローヤンじゃないか、
新潮文庫に入ってるサローヤンの本って、ワインレッドって感じの赤の背表紙だったよなー、
ツーナカシーと手にとってしまった。
『僕の名はアラム』(柴田元幸・新訳)
値段も手ごろだった。(税別520円なり)
で、そっち読むほうに時間をとられてしまった。
もともと新潮文庫には入ってなかったはず、
「わが名はアラム」
のタイトルでハードカバーのやつを昔読んだ記憶があったけど、アラムって名前の子供が
なんかどたばたする日常系の話、という記憶しか残ってなかった。
まあ、一話ずつ独立した短編連作で、おおすじはあってるんだけど。
今回読んでみて、印象に残ったのは、アラム少年よりも、むしろ脇役のおっちゃん達のほうだった。
もう、「ああ、これアカンやつや……」っていうおっちゃんがまあ出てくるわ出てくるわ。
もう、この状況は、笑うしかないよなあ。という境地。
ユーモアというものの、極意なのかもしれないね。
昔読んだときは、このおっちゃん達にいまいち共感出来なかったんだろうなあ、ねこのきも……。
まあいいや、
ラストの話は、うん、まあわかるわかるっていう感触だった。
頭ではわかるけど、うまく飲み込むことが出来ない。腑に落ちないというやつだ。
文句があるわけではないんだ。
うん、日本人なら、こうは書けない、あるいは書かない。
書く側だけではなくて、読む側にしても、最終話のような話を日本人作家が日本国内のこととして描いていたら、最終行の受け止め方は、また違ったものになってしまうのではないのだろうか。
ただそれだけのこと。
つきつめれば、前にノートに書いた、伊藤 整の、
「近代日本人の発想の諸形式」
に出てくる下記の箇所に行き着くような気がする。
「これは、キリスト教が他者を認識してそれに働きかけることを善の原型としてゐるのに較べて、佛教や儒教では、他者への積極的働きかけが、即ち他者についてのヒューマニスティックな認識が、それほど強くないことが影響してゐる。キリスト教の黄金律である「己れにせられんと思ふことを人にも為せ」といふ肯定形が、儒教では近似した思想を「己れの欲せざるところを人に施すことなかれ」と否定形で語られてゐることも、その差を示してゐるやうに思はれる。他のエゴへの働きかけを絶ち、他物の影響を感覚的に断つことによつて安定を得ようとする傾きは、佛教において強い。キリスト教の戒律にも多くの否定形はあるが、その根本には他のエゴに対する強い認識と、働きかけとしての「愛」といふかけ橋がある。―― 『近代日本人の発想の諸形式』より引用」
でもまあ、そんなこんなを考えながら読むのも
翻訳小説を読むひとつの楽しみではにゃいのでしょうか。
にゃんにゃかにゃん