今日から隆信編が始まりました。
作中で書くのはどうかと思ったので、執筆動機をここで記しておきたいと思います。
さて皆さん、龍造寺隆信という人物を、そもそもご存じでしょうか?
ここに来られたのですから、名前くらいは知ってると思うのですが、一般の知名度はかなり低いものと思われます。
龍造寺家は佐賀を代表する戦国大名ですが、その支配が現在の佐賀県全域に及んだのは、戦国時代の後期から江戸時代初期までと長くはありません。
加えて、佐賀と言えば幕末、雄藩として活躍した鍋島家や、輩出した志士達の方が盛り上がっていて、戦国佐賀は埋もれてしまっている様に見受けられます。
そして隆信を知っているという方も、おそらくこんなイメージを持っているのではないでしょうか?
・幼い頃に一族の多くが謀殺されたため、猜疑心が強く、残忍な性格になった。その生涯において、非道な振る舞いを繰り返し、人心の離反が相次いだ。
・戦場では籠に乗らないと移動できない程、極度の肥満体。残忍な性格もあって、「肥前の熊」と渾名されている。
・佐賀の一国衆からのし上がり、「五州二島の太守(豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、壱岐、対馬)」と呼ばれた。
このイメージ、私は凄く残念に思っています。
まずその振る舞いについては、多くが当時の倫理観や社会通念に順じたものです。斬殺した事件についても、殺された相手側にそれなりの理由があり、やむを得ず殺してしまった相手の遺族には、フォローもしています。
次に極度の肥満体と言うのは晩年の話です。生涯を通じてそうであった訳ではありません。
彼の言葉には「分別も久しくすればねまる」(思案も長々とすれば腐る──※葉隠聞書一より)と言うものがあり、その戦ぶりも迅速さを以て、相手の虚を幾度となく狙い続けるもの。壮年期、有馬家との一大決戦、丹坂峠の戦いでは、自ら奇襲部隊を率い隠密行動を取っています。
体の大きさだけならともかく、肥満で動きが鈍いイメージから熊と渾名されるのは、如何なものかと思います。
そして彼が直接支配したのは、肥前の多くと筑後の一部のみ。
他の地域に関しては、在地の国衆と起請文を交わして傘下に置いただけです。地盤は脆弱なものであり、そのために傘下の国衆達は離反と帰参を繰り返したため、彼は肥前とその周辺で戦を繰り返すのが手一杯だった、と言うのが実情の様です。
また守護職を得た事はありません。
そしてこれらのイメージの集大成と言えるのが、彼の最期になった沖田畷の戦いでしょう。
鍋島直茂らの反対を押し切って、大軍を率いて有馬、島津連合軍との決戦を強行。
ぬかるんだ足場の悪い地において、無謀な突撃を兵に命じ、島津側の戦法、釣り野伏に引っ掛かって軍勢は総崩れ。
結果、輿を担いでいた兵にも逃げられ、討ち取られてしまう。
しかしこれも、研究が進み、戦いの経過について疑問点が多い事が分かってきました。
龍造寺隆信は、その人物像が大きな転換点に差し掛かっている。
それを小説という媒体で、表現してみたい、と言うのが今回の執筆動機になった次第です。
拙い所も多々あるかと思いますが、是非最後までお付き合いいただけます様、お願い致します。