2025年が幕を開け、
あっという間に3週間ほど経ちます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
昨日は大寒ということで、
本来なら1年で最も寒さ厳しい時期ですが、
私が住んでいる地域は
なぜかここ数日、小春日和でした。
ですがまだまだ雪が降りそう。
油断はできません。
そうそう、近況報告。
今こちらカクヨムで更新している
【我は湖の子】も進めておりますが、
12月に出版した【連綿と続け 一巻】
の続きとなる二巻の校正などをしています。
【連綿と続け】は富山県を舞台にした物語で、
2021年の6月からインスタで書いていた未完の長編です。広げすぎて収拾がつかなくなったものを修正しながら、もう一度ストーリーを立て直し、シリーズ化しながら完結を目指しています。
当初、書籍化なんて考えてもいなかった作品ですが、物語を生み出した以上はこれを書き終える使命が私にはあります。
初めて書き上げた【潮騒に導かれて】と同じで、
自分の未熟さを痛感しながら
一字一句と向き合っています。
二月くらいには二巻を出せたらと
目標を定めて夫と二人、
悩んだり話し合ったりしながら、
より良い形で作品を世に出すことだけを考える日々。
自分で作った文章なのに
誰か別人が書いたんじゃないかと、
そう思ってしまうことがあるんです。
それは良い意味でも悪い意味でも。
ここ1年は書籍化にあたり勉強を重ねて、
あの頃より慎重になったように思います。
だから間違いも減りましたけど、
一方で考えすぎて楽しめなかったり、
どこか型にはまってしまっているような、
頭がかたくなってしまったところがあって。
それに比べると小説を綴り始めた4〜5年前は、
もっとのびのびとした文章だったなぁとか、
でも間違いだらけだな…とか。
そんなことを思いながら
修正や加筆、表記の統一、
重複箇所を削る作業などをしています。
私はこの作品で何を伝えたかったのか、
忘れかけていた大切なことを思い出し、
大事な部分だけは変えずにいこうと
あえてお粗末なところも残します。
当たり前ですが、私の小説は芥川賞や直木賞をとれるような代物ではありません。文章も上手くはないでしょう。(上手くなりたいけど)
でも、少数でも読んでくださる方がいらっしゃるから、下手なりに自分の個性を消さなくていいのかな、とも思っています。
たぶん私の読者さんは、上手な文章を求めていないんじゃないかな。それよりも何かに共感してくださる部分があるのだと思いたい。
その「何か」ってのがわからないんですが。
だから格好つけた文章はやめました。
数年前の文章を見ると、
やたら格好つけていて自分で「うわ〜……」ってなる。
風景描写は好きなのですが、無駄に説明が多かったり、わかりづらい言い回しや表現をしていて、多少は良いと思うのですが、なんて言うか胸やけしちゃってくどい。贅肉のつきすぎた表現が多かった。
そこを削り過ぎないように
もっとわかりやすく簡潔にしてみたら
すごくすっきりしたんです
編集者をしている親族からも言われました
「小説は説明するな。描写しろ」と
そして「お前にしか書けない物語があるはずだ」と背中を押してくれました(その倍くらいダメ出しもあった)
その人は長年、編集者をしていて、後期高齢者になった今もフリーで仕事をしている。
前にも言いましたが何のコネも使えません。
ただ、大反対から応援とちょっと助言をしてくれるまでにはなった。
その人が昔、作家にとって大切なことを書いた文章を読ませてくれました。ここに一部紹介します。
これを読んでくださる方の中には、
小説だけでなく文章を作成する職業の方もおられるかもしれません。書き手の心構えのような内容が入っていますが、人それぞれなのであまり気にしないでください。でも一度読んでみる価値はあるかも。
少々長いのですが、
私の心に刺さったところだけ抜粋しています。↓
・
「誰かに読まれることを前提に文字を記すのは、深夜、密室で自分のためだけに日記をつけるのとは大きな違いがあります。基本的に書くという行為は孤独な作業です。しかし、誰かに読まれることを前提とした以上、読者を考え、自分の言いたいことが伝わるよう、思いやりを込めて書くべきです。そうして見事な表現が成立するのです。表現者は表現の成立に心を砕き、謙虚に努力しなければなりません。ひとりの読者は、ひとりの理解者であり、友なのです。もちろん、だからと言って読者の低俗な要求におもねるということではありません。あくまでも自分との関わりにおいて、『なぜ書くのか』ということを前提に書く」
・
これは長文の一部分ですが、
職業柄、恐らく作家の卵に向けて綴ったもので、今から50年近く前に綴られた文章の冒頭です。
これを読んだ時、私はハッとしました。
さらにその方はこうも綴っています。
・
「皆、難解な文章を使いたがるが、一般的な文章には必要ない。難解さ=高度な思想という錯覚、あるいは信仰であって、それは書き手を傲慢にし、表現への努力を奪ってしまいます。自分で真剣に考え、表現して生きることから逃げる時のカムフラージュの役目を果たしている。自分から逃げた文章に、世の中で流行っている考え方や論壇・文壇のムードと短絡的に結びついた文章があります。文章はインテリや文化人の占有物ではありません。孤独な書くという表現ぐらいは、真似による自己損失をせず、本音の世界で自分と関わりたいものです」
・
小難しいことを言う人で、昔からちょっと面倒くさい親族だったのですが、私はこの文章を読み、様々なことを学び、彼を心から尊敬するようになりました。
この教えを心の片隅に置いて、
今年も執筆を頑張ろうと思います。
最後に本音を言わせてください。
でも……でもさ、
私だっていつか取りたいよ
芥川賞とか直木賞!(号泣)
NEKO🔥
