いわゆる「なろう」には話の粗が多いと言われます。
ですが、そもそも作品の「粗」とは何なのでしょう。
実際、書き手、読み手ともに良くわかってない事が多いでしょう。
ここでひとつ指摘したいのは、簡単に見つかる粗は、粗ではないということです。
あなたが書いているor読んでいる作品の粗が簡単に見つかった場合、それはむしろ書き手ないし読み手を疑ったほうが良いです。
これは「書く準備」と「読む準備」が出来ていないということを意味するからです。
さて、小説の描写では、今起きていることに対して「たまにあること」「例外」があることを書きたくなるものですが、それが我慢できるかどうかが大事です。
概して、書くことより、書かないことの方が難しいものです。
これらのことを言い換えると「今必要ない情報はいらない」となります。
昨今のネット小説の展開とは、基本的にクイックなものです。
用語や世界観に対して根本的な説明がなく、素早くストーリーが進んでいきます。
これがなぜ実現しているかというと、お約束を利用しているからです。
忠臣蔵を知っていれば、携帯忠臣蔵、女忠臣蔵、これらの亜流作品の根本のストーリーや人物が最初から何となく理解できてしまう。
そのため、作者と読者はおもしろさの部分に注力できる。
お約束を利用するということは「テンプレートを利用する」と、言い換えてもいいでしょう。
こうした場合、重要なのは「違い」を説明することなのです。
違いとは「特色」≒「タグ」「売り文句」≒「キャッチコピー」に関係する要素です。
共通認識の範囲であれば、情報は省略できます。
「今必要のないことは教えない。書かない」
これは、人に何かを説明するときの基本的な動きです。
ではドラゴン◯ールを例に取ってみましょう。
この設定を知らない人に教えるならどうすべきか。
「7つの玉を集めれば願いが叶う」
知らない人に説明するなら、これだけで十分です。
「7つの玉を集めれば願いが叶う。しかしその場所はわからない。海の中にあるかもしれないし、魔王が守っているかも知れない。もしかしたら別世界に存在するかも知れない。実は7個ではなく8個かも…」
ここまで説明されたら、誰でもうんざりするはずです。
そして、粗を指摘する類型のひとつには、この「書かなかったこと」を指摘するものがあります。
それは「今使わない」そして「これからも言及しない」から、今は存在しないものとして隠されている。または消されているだけです。
あえて粗を探そうとしている人は、この部分を理解していません。
書いていないというのは、読者に快適に作品に入り込んでもらいたい作者が、読者に信頼のバトンを渡している状態なのです。
そして、省略される言外の情報には「常識」も含まれます。
往々にしてなろう作品の粗探し動画では作品内に「常識」が存在しないことについて揶揄されるものですが、その「常識」は、私たちの世界での「常識」になっている場合があります。
ナデポは粗ではなく、なろう世界の常識なのです。
宇宙で音がするのもSFの常識ですし、警察が無能なのもミステリーの常識です。
これらを粗とするのは無理があるでしょう。
では、作者がお約束と言い張れば、粗は存在し得ないのか?
そうでもありません。
異世界とこの世界で完全に一致するものがひとつだけあります。
AはB、AでありB、AないしBという論理構造です。
前の話からキャラクターのレベルがさがっているとか、そういった間違いは指摘するべきです。
しかし、この論理構造すら無視して良いものが存在します。
演出です。
さっきまでビームの効果音がバンバンなってたくせに、急にシーンとなって「宇宙には音がないからな」とかキャラクターが言い始めたら、さすがに誰だってツッコミを入れたくなるはずです。
ですが、無音を用いたシーンが格好良かったり面白かったら「あり」になります。
なぜなら、それを目的にした演出だからです。
江戸時代ではこういったものを粋(いき)だねぇ。などと言っていたのでしょう。
これをおいおい、そりゃないだろ、さっきまでしてたビームの音は何だったんだよ! と指摘すれば、無粋だねぇ。お前さん、粋ってもんがわからないかね? などと周囲のおじさんが教えていたかもしれません。
粗と粋とは表裏一体。書き手と読み手がツーカーであれば粗は粋にもなり得てしまうのです。
しかし、現代においてSNSで人々がつながるようになってから、こうした粋についての学習はむしろ難しくなってしまいました。
知識や常識をSNSに依存することはオススメできません。
SNSのアルゴリズムでは、好悪が何よりも優先され、同じモノしか集まらないようになっているからです。ゆえに、未知の物、自分を否定するような新しい考えに触れることがとても難しくなってしまっています。
ものごとを否定する人には、同じように否定する人しか集まらず、憎しみを撒き散らす人には、同じく憎しみを持つ人しか集まらない。SNSはそうした同質のものを増強してマネタイズするシステムだからです。
話がそれました。戻しましょう。
では、結局のところ、作者と読者はどういった関係をもったら良いのか?
簡単です。「おもしろがって」ください。
粋とは阿吽(あ・うん)の呼吸から生まれます。
言葉を通じずとも、意をくみとっていく。それが粋の心得です。
作者は「おもしろがらせよう」としています。
なら読者がすることは、それを汲み取っていくこと。
だから「おもしろがる」だけでいいのです。
「書く準備」そして「読む準備」が出来ている。
その準備とは、単にこういったことではないでしょうか。
おもしろがる。
それが意気であり粋なのでしょう。