「悲しみで花が咲くものか」をつい先ほど書き終えました。
4月に連載を開始して、10か月かかっての完結です。
以前も書きましたが、構想自体は10年前のもので、はじめの数話も十年前に書き出したものです。
仕事の大きなプロジェクトを抱えていたこともあり、十年間断筆していました。
でもその間にも頭の中は常にこの物語が生まれたがっている状態でした。
もう一度執筆しようと思ったのは、友人たちの死でした。
この二年ほどの間に3人の友人が命を失いました。
一人は癌。
まだ若いので、当然転移も早く、あれよと言う間に鬼籍に。
二人目は事故で。
つい昨日まで元気だったはずが、猛スピードの車の前方不注意により命を奪われました。
3人目は自ら。
元々地域一番の悪ガキでかなり若いうちに鳶の会社を興し、売却後はサラリーマンとジェットコースターみたいな人生でした。この何年かは肝硬変に苦しんでいました。家族ぐるみでずっと仲良くしていましたが、3年前に家を建て、隣街に引っ越してからはしばらく疎遠でした。
数年前顔を合わせた時に、「今度新居を汚しに行くよ」そういう僕に返した曖昧な顔を今でも覚えている。
でももちろん、自信を選んだ彼への怒りは、まだ収まっていない。
近しい人たちの命について考えるにつけ、この物語を完成させたいという衝動を止めることが出来なくなりました。
特に残された人間について、僕は思うところがあります。
極めつけは、この物語の執筆も佳境に迫った去年の年末、子供の頃の親友が無くなりました。酔っ払って風呂でなくなってしまいました。
だから本当は4人です。
僕は父子家庭で育っています。
母親が家から出て行ったとなると、周りの大人たちからは穿った目で見られることがあります。
それでも彼と彼のお母さんは、いつも僕を気に掛けて、遠くの場所も含め、連れ立ってくれました。
高校大学とアメリカに留学し、帰国後は外資系の証券マンとなり、その後独立して会社を成長させていました。
彼のお母さんから連絡を貰った時はかき乱される気持ちを抑えることが出来ませんでした。
我々は望む望まないとにかかわらず、生きなくてはいけない。
そして生きていた人たちの想いや、祈りや、遺物の否が応でも生きています。
そんな思いをこの物語には込めています。
そしてあらゆる命が奇跡であるとも信じています。
僕にできることは本当に小さいですが、作中の通り、世界が優しさで溢れることを望んでやみません。