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名無之が物語を読むのを止めるとき その2

どうもどうも、名無之です。さて、ようやく書き上がりましたので共有します。マジで疲れた。マジで……。

さてさて、これを読んでいるということは、すでに前の近況ノートはお読みになったということでしょうか。
何? 読んでない!?

それはいけません。
これは前回の続き。ぜひ、前回のノートを読んでからお越しください。
リンク↓
https://kakuyomu.jp/users/nanashino0313/news/16818093088282500439

さて(2回目)、ここから先を読んでいる皆さんは……
ほら、なにチラ見してんの! 早く前の近況ノートを読んできなさい。
読んできなさい! 読まないとお母さんに言いつけちゃいますよ!



閑話休題。


では、前回の続きです。
僕が物語を読まなくなる理由は2つ。1つは前回お話しした「無駄な話をする物語」でした。これが判明し次第、僕は親の仇が如き速度で読むのをやめます。

そして、次の2つ目は「物語の矛盾性」についてです。
?を浮かべる方が多いと思います。
これについては、とても多義的で一言で説明するのが難しいです。とりあえず、この言葉に内包する要素を挙げていきます。

・キャラクターが設定、シーンとかけ離れた行動をする
 重い過去を背負った主人公が、(同じく重い過去を背負った)友人の昔話を聞いているときに「はじめてのお使いじゃん」と突っ込む。明るい性格なのかもしれないが、自分と近い境遇が語られている時に、そのような空気を読まない発言をすることには矛盾が生じます。もし彼が空気読めないのだとしたら、そのエピソードをもっと出してほしい。(なお、この主人公は読者視点では根っから真面目で、けど喧嘩っ早い性格)
 という風な具合でキャラクターがこちらの予想と矛盾した行動をとると「?」となります。それが溜まりに溜まって、最終的に切る判断要素になります。(ちなみに上記の例は僕が実際に読んだ商業小説を簡潔にまとめたものです。商業小説だろうと、矛盾はたくさんあります)

・作者の主義主張が垣間見える
 空港警察官が、「ウイグル自治区の住民が中国政府の役人に連行された。飛行機を止めてくれ」と空港スタッフに申し出る。おそらく、このシーンはこの空港警察官がいかに破天荒であるかを見せたいのでしょう。であれば「国際指名手配犯が乗っている」でいいです。ウイグル問題を引用する理由がわかりません。
 ここで補足しますが、僕は某国政府の信者ではありませんし、毛主席語録を読んだことはありません。ウイグル問題や中東情勢、ウクライナ情勢のニュースを見るたびに心を痛めています。
 しかし、それを物語で扱う際には細心の注意を払う必要があると考えます。というのも、政治には多くの人が関わっており、それぞれの思惑・地位が複雑に絡み合っているからです。政治問題を取り上げる、ということはそういった人々の動きも計算に入れなければならず、一つの問題だけで莫大な文章量が必要になります。そうでなければ「作者(神)の大号令」になりかねません。これがコメディならいざ知らず、シリアスな刑事ものであるならば「う〜ん」となって読むのをやめてしまいます。

・(一部の例外を除く)一人称の小説
 こう書くと物語を書いている多くの方を敵に回してしまうかもしれません。すいません苦笑。ですが、事実そうなのです。
 そもそも考えてみてほしいのですが、自分語りしてくる人ってまあまあヤバイやつじゃないですか苦笑。友達と飲みに行ったら、その友達がずっと自分のことしか喋らない。しまいには「思えば俺は昔から……」と昔話を一人でに始めたら悪寒ものです。それと一人称小説は近いものがあると僕は思います。
 つまり、自分語りする主人公=まあまあヤバい奴、という認識で僕は一人称の小説を読み進めます。誤解しないでほしいのは、僕は「一人称の小説」という情報だけで切る判断をしていません。一人称にも一人称なりの使い方があると思っています。
 詳細は機会があれば別のノートにまとめますが、大きく分けると以下の通りです。
 ・現在進行形で起こっている物事を自分視点からまとめているもの(例「蜘蛛ですが、なにか?」←記憶が曖昧)
 ・誰かに向けて綴られているもの(主人公の友人でも読者でもOK)(例「こころ」)
 ・主人公が世間では見ないような奇異な「人種」である場合(例「推し、燃ゆ」)
 ・作者が自分語りする主人公を「ヤバい奴」だと認識していること(例「吾輩は猫である」)
 他にもある気がしますが、一旦はこれくらいにします。すなわち、これらの余事象にあたる部分。具体的に言語化すると、「作者が自分語りをする主人公を『ヤバい奴』だと認識していない」作品。これに関しては、うじ虫よりも醜悪な存在が蠢く様子を見ている時のような嫌悪感が汚泥のように溜まっていき、最後まで読むことなく本を閉じてしまいます。
 「作者が自分語りをする主人公を『ヤバい奴』だと認識していない」作品の主人公は、往々にして「見て〜、あたしはこんなに可哀想で、こんなに辛いんです〜。でも〜、頑張って幸せになろうと思いま〜す」という、う〜ん、すみません適切な言葉が思いつかないので率直に言ってしまうんですけど「ウザイ」んですよね苦笑。
 傷ついた方がいましたら誠に申し訳ございません。けれども、事実として僕はそういう「私のことを見て〜」という人が好きになれませんし、その人を中心に回っていく世界を見るのは、どうしても吐き気を覚えてしまうのです。自分語りをして世界の中心になれるのなら、みんなとっくにそうしています。
 けれども、残念ながらこの世界に主人公はいません。それは僕が「トマス・プランテーション」を書きながらたどり着いた一種の「世界定義」です。この世界に主人公はいない。僕はそう考えています。ですので、作者が「この作品には主人公がいる」と潜在的であれ認識を持って書かれた物語には、圧倒的なリアリティの欠如を感じてしまうのです。

 これに関しては首を傾げる方が多いかと思いましたので丁寧に説明させていただきました。お許しください。加えて、理解して頂けなくても構いません。少なくとも、僕はそう考えているということを知っていただければと思います。



さて、ここまで「物語の矛盾性」について語ってきましたが、こうして言葉として書き起こしてみると、これらの要素は一概に「僕が冷めてしまう」という何とも主観的な言葉に集約してしまう気がします。
けれども、ある程度仕方のないことではあると考えます。僕は(皆さんもそうだと思いますが)好きで物語を読んでいます。理由を詳細に書こうとすると紙幅が足らないので割愛しますが、物語に一種の「熱」を求めています(秤金次みたいな思考ですね)。その熱が冷め切ってもなお、読めというのはもはや仕事(下手したら拷問)であり、娯楽とは呼べません。だから僕は余計なストレスを抱え込まないように、読むのを途中で辞めるようにしているのです。

なお、前項の繰り返しになりますが、ここまでの話はあくまで僕が読むのを辞めるタイミングについてです。もちろん、キャラクターが設定と矛盾する行動をとっても、作者の政治的主張がふんだんに詰め込まれていても、イタイ一人称で書かれた物語でも名作はたくさんあります。
何より、物語が存在するという時点で僕は深い敬意を持って接するようにしています。「けしからん!」とか「はい、クソ〜」となることは滅多になく、「う〜ん、僕には合わなかったな〜」と苦笑いを浮かべるくらいです。なので、僕が読むのを辞めたからと言って落ち込まず、「へっ、名無之にはこの作品の良さがわからねえんだ」っと思っていただいて構いません。

ここまで、書いてきました。
実は、前回の翌日に出す予定だったのですが、言葉選びが難しく断念。実時間にして1週間以上かかってしまいました……汗。さらに、説明を重ねようとすると、それこそ自分がイタイ一人称主人公になってしまいそうで、近況ノートではまずやらない校正を行なってしまいました。おかげで新作の校正が……。
今から全力で取り掛かって予定日に間に合わせるように頑張ります!!

というわけで、最後まで読んでいただきありがとうございました。
引き続き、名無之権兵衛をよろしくお願いします。

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